アンと雪の女王の「ありのままで」が大体覚えられた。一人で口ずさむことができる。ところが、途中でどうも違和感を感じるときがある。
当然のことながら、聞いているときはピアノやオーケストラ(あるいはひょっとするとシンセサイザーかもしれないが)の伴奏を意識して聞いている。そこで裏で流れる和声というものがあるという前提で歌を受け止めている。しかし、一人で歌っているとそれがない。すると裏にあるべき和声というのを必ずしも当初の局のものと違うもので想定してしまったり、感じ取ったりしてしまう。
教会で重要な位置を占めるヘルヴィムの歌には様々な歌があるのだが、以前革命で亡命してきたロシア人たちが集まれば、自然に必ず歌う歌で「シモノフスカヤの調」というのがある。これは四部合唱で聞くと、とてもきれいな曲だ。
しかし、ロシア人たちが集まって歌うときは、きっと一番上のソプラノのパートだけを歌う。すると、各節の終わりが「ミーファミレドーシドー」と終わることになる。本当は下にアルトのパートがあって、「ドーレドシラーソ#ラー」とハモってるわけだけど、上の旋律しか聞こえない。傍で聞いている側としては、この曲は変に明るい長調の曲だな、と感じてしまう。
自分が知らない曲をイヤホンで聞きながら、メロディを口ずさんでいる人がいると、本当の曲の表情とは全く違う曲であるように聞こえることはよくあることだ。
あるメロディーがなっているときに、全く知らない人がそれを聞いて、その裏側に当然ある和声なり響き、強いては気持ちみたいなものが、きちんと届くということは実は難しいことなのだろう。そして古くから口ずさまれているような民謡や愛唱歌はそういう条件を満たしているのだろうと思う。
聖歌とか、たとえば国歌みたいなものの場合には、きっとそういう条件を満たしている必要がある。