「狭い門から入れ」というのは、多分キリスト教の言葉としては最も有名な言葉の一つだと思う。一方で、多くの場合間違って使われる言葉でもある。
新聞なんかで、大学入試について「狭き門」がどうこう書き立てるけど、キリストが言っているのは、人々が押し寄せるような門には行くな、ということです。
思うのだけれど、精神的な達成を求める人々にとっての困難は、ある一定の成果を出せる程度にどこかに行くまでに、それらしい道しるべとか、途中の結果とか、そういうものがほとんど得られないということだ。
何かの研究で有名になるとか、何かの賞をもらうとか、大学で認められるとか、そういうことがあるのは、周囲の一定の人が同じことに取り組み、同じ理解を持っているから。社会が跳び箱の8段目まで飛べるようになったときに、9段目を飛んでみせるから「あいつはすごい」ということになるのであって、人々が2段しか飛べない状況で12段ぐらいを飛ぶ人が突然出てきても、社会は彼を受け入れることができないのです。
「12段の跳び箱の真実はあるのか」というと、ある。真実はいつでもマトリックスのネオに明かされるように明かされる。
だからそこに行こうと思う人は、相当長い距離を一人で歩き通す覚悟がいる。途中の道に見慣れたものは何もないんです。