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臨死体験 (2)

前回の記事 エベン・アレグザンダー医師の場合、臨死体験をしたということは、難しい病気から回復した、不思議な光景を見たというだけではなく、普段触れることのできない現実、思想に触れて帰るものだった。

 

その体験をすることによって、彼の存在自体が大きく変わった。それは病気から回復し人間が言うことというよりは、まるで修道院で長年祈りに勤めていた人間が聖霊の体験をして神から賜物をもらったかのような話になっている。

だけど、それってちょっと考えるとおかしいだろ?ただ単に病気から回復しただけじゃないか?

彼の話を聞いていると単に病気から回復した、天国に行くという臨死体験をしたというだけではない、まさにそのような体験をすべくひどい状況に陥ったのではないかとさえ思える。

 

逆に言うと、誰もがそううまい具合に行くとは限らないということだ・・・と思う。

 

重病に陥ったからと言って、誰でも臨死体験するわけじゃない。仮にその臨死体験が真正なものだったとして、死ねば必ずそういう美しいところに行って暖かい親族に迎えられるかどうかは、多分決まっていないんじゃないか?

私たちは楽観的で、誰かが臨死体験をして「光に満ちた世界に行きました。親族に会いました。」というと自分も会えるかもしれないと思う。だけど、そんなことを知らずに重病で死んでしまう人のほうが実は圧倒的に多いのではないか?

 

死ねば無。死ねば無だからこそ、死の意味がある。ある人々は言う、死後の世界などあるわけがないじゃないか。

一方である人々はいう。人はもともと霊界にいて、地上へは修行のために降りてきているだけなのだ。死ねば魂は解放されて再び霊の世界へ帰るのだ。

一体どちらなのか。死後の世界はあるのかないのか。

 

ひょっとして両方正しいのではないか。死後の世界について、実は様々な可能性があり得るのではないか。臨死体験をした人は、誰もが救われるという確固たる感触を得ると思う。いわゆる神秘体験をする人は誰でも感じると思う。命は永遠。いいだろう。だけど、誰もがSo happy!というわけにはいかないのではないか。

 

ほら、福音書がそうじゃないか。つまり、ある人々は、実を結ばないので「外の暗闇」に放り出される。彼らは泣いたり歯噛みをしたりするだろう。主は羊と山羊を分けるように彼らを分ける。永遠の火に投げ込まれる人もいる。

それがどういう意味なのか、永遠の火とはなんなのか。実際にどうなのかは簡単にはわからないと思う。しかし、かなりいろいろな可能性があるのではないか。

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