ラプラタ・プラ太さんはデイリー4コマがあったとき、私のお気に入りだった4コマ漫画家さんだ。そのサイトの中にボクとマンガとという話がある。あらすじはこうです。
ボクはマンガをうまく描けるようになりたいと思っていて、神様のところにマンガの妖精に来てほしいと頼みに行く。ところがマンガの妖精は出払っていて、違う小さな妖精がやってくる。この妖精は夢に向かって頑張っている人を応援する名もない妖精だった。そのため、夢がかなうと妖精は消えてしまって、その記憶もなくなってしまう。
しかし、妖精さんのことは記憶からなくなってしまうのだけれども、ボクの妖精さんにたいする気持ちは消えることがなく、微妙な喪失感を味わう。
私はこのシチュエーションに共感できる。重ねられる経験があるからだ。何か大きなものを失ってしまう。今日一日、別に何事もなかったかのように一日が進行していく。だが、心の奥に気持ちが残っていて、消えることはない。夢の中などで微妙なそういう気持ちが浮かび上がって来る。
だが、誰もがそうなるわけではない。仮に何か失った人、大事な人がいなくなったとか、そういう人であっても、普通は大っぴらに喪失したという事実が全面に出てくることになる。災害にあった人などは確かに気の毒かもしれないけれども、テレビに出て家がなくなりましたとか、何もかも失いましたと言っているのは、本当はどうなのかと思うときもある。別に災害がなくても失うときには失うのだから。
芸術家というのものは、極端なやりかた、誇張かもしれないけれども、ある気持ちを受け取る人と共有しなければならない。「ボクとマンガと」では記憶が消えるという設定でそれを実現している。だが、通常は記憶は消えたりはしない。喪失が周囲の多くの人、場合によってはとんでもないやじ馬にまで知れ渡ってしまうことになる。
何が違うのだろう。
・・・いろいろ考えたが、多分こういうことだ。
人生の環境の変化が大きければ大きいほど、また回数が多ければ多いほど、喪失のショックはやわらげられる。自分は引っ越しも多かったし、人生で生きてきた局面局面が、結構違っていて連続性がない。大きな喪失があった後、突然外国に行って違う環境に対応しなければならなかったとしたら。彼らに自分のこまごまとした事情を話している余裕はない。すると、喪失によるショックはやわらげられることによる。
つまり、出来る限り、出来れば若い間に、新しい環境に飛び込むようにしないといけないということだと思う。内面的にも、外面的にも。