人が引き返すことができないポイントがある。
解放の記事で、認識・判断・命名が決定的な役割を果たしていると私は言った。しかし、そういうものから解放されるとどうなるか、人は知らない。
多くの材料がそこにはある。
仏教で「無我」ということをお聞きになる方が沢山おいでだと思う。これ、多くの人が理解できると思う。インド式に「アートマンならざるものをアートマンとみなす」などといわれると難しいけど、そんな難しいことを言わなくても、無我という言葉は日本でポピュラーな言葉になっている。
だが、無我だったら我がないというところまでわかったとしても、それ以上のことはわからない。
総じて仏教はその先の説明をしなかった。十二縁起で「名色」(めいしき、ナーマンルーパ)という言葉がある。まさに命名されて「ある」ということになった物をさす絶妙の言葉だ。しかし識が滅すれば名色が滅すとはいうものの、名色が滅した後の世界のことを仏教はあまり言わなかった。説明したところで新たな執着を作るだけだから、自分で見てみろ、というわけだ。
多くのことがそのポイントから向こうに関わっている。神、占星術、いろいろなものが向こう側に広がるものだ。
悟ればわかるはず、みたいな考えがある。悟らないとわからないかもしれないが、悟ったからと言ってすべての説明が一辺にやってくるわけではないのだ。少しずつ少しずつ相手は正体を現してくる。