海老蔵さんなんかは、奥さんがガンでお亡くなりになったわけだけど、闘病中というものはどうにも表現できないものなのだろうと思う。
自分も、配偶者じゃないけど、知り合いの女性が乳がんで亡くなったことがある。自分はいろいろそのときはお手伝いをする立場にいたのだが、抗がん剤で髪の毛は抜けるし、乳房は切除しないといけないし、女性としてはショックなことがいろいろ多かっただろうと思う。
それで、本人もつらいが、旦那さんもつらかったことだろう。結婚してある程度の年月が経っているわけで、そこは新婚さんみたいなのとは違うとは思うし、信頼関係もある。
だが、かつては髪の毛もなで、おっぱいももんだりしたでしょう。そうやって愛し合ったパートナーが病でむしばまれて、あそこはなくなりあそこは切除。
しかし、海老蔵さんも自分の知り合いのその人も、当たり前と言ったら当たり前だけど、パートナーへの愛を貫き通した。むしろ、今までの自分のいろいろ見てきた範囲では、逆に病にかかったということがその人たちの愛情を強くしたようにも見える。
歳を取るにつれて、何もない人、何の病気もない人というのは少なくなる。盲腸でもガンでも循環器系でも、大きな傷が残ってしまうことがある。あるいは、手足が不自由だったりすることも出てくるだろう。
あれもこれも切除してなくなってしまったら、最後はどこがその「愛する人」なのだろうか。ほんの石ころのカケラみたいなものになってしまって、それでも自分をしたってよってこようとするようになっても、やっぱりそれは「愛する人」だろうか。
まるで、その人たちにとって、その病にむしばまれたパートナーは、その人の人生になくてはならない愛の証になったかのようだ。
これにはほかの側面もある。人が立ち直れないような病気になったり、亡くなったりすると、そういうことでも起こらない限り会うことのないような人が顔を合わせる。ロミオとジュリエットがなくなってモンタギューとキャピュレットが親しくなったように、誰もが元気でいたらひょっとしたらお互いに喧嘩していたかもしれないような人が、互いに慰めあうことになる。