この聖句は、なかなか意味の分からない聖句だと思う。自分も「これなら」という解釈に触れたことはなかった。
書かれているのは
- マタイ19の30
- マルコ10の31
- ルカ13の30
である。
マルコとマタイでは、ある金持ちがやってきて、永遠の命を受けたいという願いを伸べ、キリストは自分の財産を売り払って貧しい人に施し自分についてこいという。金持ちはそれができずに悲しんで立ち去る。キリストは富んでいるものが天国に入るのは難しいと述べ、弟子たちに犠牲について述べる。財産や身内などを神の国のために捨てたものはその何倍をも受け、永遠の命を継ぐであろうと教える。しかし、最後につけたしのようにボソッと「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」というのである。これ、日本語では長い聖句ですが、原文は
Πολλοὶ δὲ ἔσονται πρῶτοι ἔσχατοι καὶ ἔσχατοι πρῶτοι.
たったこれだけの文章である。
πρῶτοςは英語でいうとFirstで、ἔσχατοςはLastです。最初の人々は最後に、最後の人々は最初に。案外そういう言い回しがすでにあったのかもしれない。
「金持ちは天国には入れないよ。家族や財産を捨てたらその何倍も受けられるし、永遠の命というのはそういう人が受けるんだよ。お前ら分かったか・・・でも、まあ、先の者はあとに、あとの者は先になるんだがな」
いや、ちょっと待ってくれ、お師匠さん。気になるじゃないか。全部あなたのために差し出してきたのに、何が「先の者は後になる」なんですか?
という文脈なわけです。マタイのほうには、この後に農園に働きに来る労働者の譬えが続いている。朝から働きに来た人にも、午後から働きに来た人にも、農園の主人は同じように1デナリの支払いをする。先に来た人が不平を言うと、主人は契約通りにしているじゃないかというのである。
ルカはちょっと違っている。金持ちが天国に入りたいという話、犠牲が必要だという話は18章に別にある。13章では救われる人が少ないという話をして、人々が東西南北からやってきて神の国で宴席につくだろうと言い、そのあとであとの者で先になるものがあり、先の者であとになるものもあるという言い方をしている。
多くの解釈は、このルカの文言をとり、これは先に律法を受けたイスラエルの人々ではなく、後からキリスト教を学んだ異邦人が救われることになる、みたいな解釈をする。
あるいは、農園のたとえだけを持ち出して、神の平等さとか謙虚さの必要性みたいなところに話を持っていこうとする。つまり、後から働きに来た人にも同様に賃金を払うことに対して感じる理不尽さを埋め合わせようということを主眼に読み解こうとする。
でも、それだといろいろ問題があると思うのです。
- 後の人が先になるのはいいとして、先の人が後になるのはなぜか。
- どの解釈も、金持ちの青年の話からの続きを無視している。この人は財産を捨てることができなかったが、弟子たちは何もかも捨ててきたのだ。ところが主は、その弟子たちに向かって「でも、先の者は後になるんだがな」と言い放つ。なぜこんな言い方をしたのか、誰も注目していない。
これ、自分は分かったような気がします。
キリストが言おうとしたのは「必要な犠牲は外的なものではない」ということ。
たとえば、金持ちがいて、ものすごく金や土地に執着していたとしましょう。彼はあるとき回心し、一晩寝ずに散々悩んだ挙句、決意を固めて、すべての金と土地を教会に寄進し、修道院に入ることにしました。すると、教会はこの修道士に、新しく寄進された金と土地の管理をさせることにしました。
自分で土地と金を持っているとき、彼は固定資産税を払い、銀行をチェックし、金と土地を一生懸命に管理していました。修道士になった後、彼はついこの間まで自分のものだった金と土地を一生懸命管理しています。何が違うのか?
実際にその金や土地や家族や、執着しているものを手放すまで、それに対する執着を払しょくすることは出来ない。にもかかわらず、必要な犠牲は土地や金や家族ではなく、それに対する執着なのです。
自分自身、若いころから坊さんや修道士みたいなものにあこがれ、いつかは世俗のいろいろなことを放り出して神のために一生懸命やるんだ、みたいなことを考えていました。結婚しても就職しても、いつか、多分。
だけど、もう無理だわ。多分、もう年貢の納め時。家や周囲の環境がそれを許してくれないでしょう。
でも、神は、たくさんのものを私に下さいました。そう思ってきたことは無駄ではなかったと思う。
先に外的な犠牲を払う人は、天国が必要としているものが内的な犠牲だということに気が付くのが遅れると思う。最初に犠牲を払った人は、その必要としているものが、土地や家を手放すことではなかったと気が付かないかもしれない。
ペテロには酷な言い方だよね。漁師をとっつかまえて「人間をすなどる漁師にしてやるから俺についてこい」といい、彼は何もかも捨ててキリストに従った。
「見てください。私は何もかも捨ててあなたについてきたじゃないですか。」
「君にはもちろん報酬はある・・・が、先の者はあとに、あとのものは先になるだろう」
しかし、前後の文章から考えても、それしかないと思うんです。