結果的に自分はキリスト教のほうに近づいてしまって、仏教のほうには行かなかったのだけど、高校時代ぐらいは仏教とかインド思想には大変惹かれた。今でも家族の法事などということになれば、般若心経や修証義の読経というのがあります。
キリスト教の祈祷、自分が言うのは昔から伝わっている正教会の祈祷ですが、その祈祷は、キリスト教が伝えたいと思っている宗教の基本的な概念をかなり正確に変わることなく伝えていて、毎日祈祷に参加するなり自分で唱えるなりすることによって、その基本的な概念は所謂無学な人にも簡単に伝わる形式が考えられているのです。
もっとも他の教会さんがどうかは良く知りません。何度かカトリックさんの祈祷にも出たことがある。グレゴリウスのミサをそのままやっている古来のミサの場合、「ああ、あそこがああなったのだな」ということは簡単にわかるのだけれど、最近のおミサでは「祈りましょう」みたいな簡単な言葉に置き換えられていた。
では仏教の場合はどうか、と考えるとかなり事情が違っていると思います。
お釈迦様は娑婆世界で一人成道し覚醒した仏陀であって、菩提樹の下で悟った内容は四諦と十二支縁起として伝えられています。
それは、キリスト教徒になってしまった自分がいうのもなんだけど、素晴らしい教え・真実だと思うの。そして、それらの教えの内容は極めて具体的な実践内容として初期経典の中に書かれています。つまり、「無明によって行為が生じる。行為によって認識作用が生じる・・・」というのだけれど、その場合にじゃあ無明を止めるのはどうしたらいいのかということについては、「気を付けることである」と明言しているし、その原因を一から全部断たなければ何も結果が得られないというのではなくて、どれか一つでもちゃんと気をつければそれなりの結果が得られるのですよ、ということは実に繰り返し懇切丁寧に解き明かしている。
お経というのは、当初は満月の日にお弟子さんが集まって、お釈迦様の教えを確認しつつそれを唱えあうことによって出来上がっていった。
ところが般若心経は、そうした教えを「空」ということを言うために、基本的に全部十把一絡げにして否定してしまっている。
教義的に「空」が正しかったとしても、そこに至るまでのきちんとした概念はきちんと学ぶ必要があると私は思う。たとえば、足し算がわかって、掛け算がわかって、二次関数がわかって、やっとニュートンの考え方がわかったとする。そこで、実はアインシュタインのような新しい考え方が出てきたとき、だからニュートンの考えも二次関数もほったらかしておいていいのだ、ということには全くならないと思う。
また、ここに出てくるサーリプッタ(舎利弗)尊者は、お釈迦様より早くなくなってしまったのだけれど、経典の中には「仏が死んだあとには誰が法輪を転ずるのですか?」という質問に対してお釈迦様自身が「サーリプッタが法輪を転じます。」とお答えになった一番のお弟子さんだった。ところが般若心経では、観音菩薩(というそれまでにはないキャラクター)が、「お前の一生懸命説いている四諦とか十二支縁起は、空という教えで凌駕されてしまうんだよ」と説教する内容になっている。とても失礼なことですよね。
結果的に、その経典を聞いた時に、その中に出てくる、「受想行識」とは何か、「無明尽」とは何か、聞いている人は全くわからない。誰が言ったかわからないが、そんな教えは聞くに値しないよ、という経典になっている。聞いている君たちは、そんな教えは知らなくてよろしい。昔のいい加減な教えなのだから。そういう内容になっている。
表向きはお釈迦様を立ててお弟子さんを説教しているのだけれど、どう考えても実質的にお釈迦様の成道そのものを否定しているとしか、自分には思えない。当の「無明尽」を解いたお釈迦様の面目は丸つぶれだ。
それでも、般若心経は日本の仏教の中心的な経典だし、観世音菩薩も信仰の中心的存在ですからね。安易なことはいわなくてもいいのかもしれない。
でも、とてもややこしい。ややこしいね。
こんにちは。
>ところが般若心経は、そうした教えを「空」ということを言うために、
>基本的に全部十把一絡げにして否定してしまっている。
こうなってしまったのは、漢訳されたものが日本に入ってくる過程で、
本来の意味からずいぶん離れたものになったから何だと思います。
サンスクリット文で読めば、上座部系と共通の基本教理の上に成り立っていること
がわかります。違いは、涅槃にいたる認識主体の意識状態のとらえ方(空=シュンヤター)
だとおもいます。
宮坂宥洪 著 「真釈般若心経 」(角川ソフィア文庫) [文庫]
あとチベット仏教系の般若心経解釈ですかね。ダライ・ラマ猊下の「般若心経入門」
とか ソナム・ギャルツェン ゴンタ師の「チベットの般若心経」(これは難しい)とか。
灸太郎さん、こんにちわ。
自分は、般若心経が出る前のテラワーダの有部の教学というようなものに詳しく触れる機会は今までありませんでした。
大乗の方だって詳しくわかっているわけではありませんが、そこで空ということを言いたかったということ、またそれまでの教学が袋小路に入ったのだろうということはわかります。
その空の教えが、正しいのだという主張も、自分なりにわかるように思います。
多分それなりに学べば、どこかには素晴らしい教えもあるのかもしれない。
しかし、ややこしい。
普通の人がそれを聞いて般若心経を読誦したり聞いたりして「ああ、なるほど、お釈迦様はそういうことを教えておられたのか」という内容にはなっていません。
六祖慧能は金剛般若経を木こりが読誦するのを聞いて悟ったと言われていて、なるほど金剛般若経は般若心経より少しわかりやすい。丁寧に説明してありますからね。
わかりやすいが、それでも一般の人にはわかりにくいし、当初の経典に比べてとても観念的・哲学的です。それに「金剛般若経」という名前を出して、「ああ、あれですね。」と仰るお坊さんもなかなかおいでになりません。
一般の人からしたときに、じゃ仏教とはなんですか、仏の教えとはなんですか、と聞かれたときに、そういう境涯まで登れる梯子がない。
突然鼻をつままれて「その痛さを探してこい」などというのも、すんなり入れる道ではない。とにかく坐禅すればいいと言っても、坐禅の何がどうなのか、という指針がわからない。
一般の人にとって、「仏教というのはこういうものです」と言われているものは、般若心経なのです。
今まで自分は自分の家の仏事に関わるということはありませんでした。
しかし、いざそれで身内の葬儀や法事に関わるうちに、なぜたとえば桐山靖雄氏が阿含宗を立てようとしたのか、わかるような気がしてきました。
般若心経を悪く言う人はあまりいません。だからそれを批判するのは大それたことだと思います。
だけど、今般若心経のプラス面とマイナス面を考えた時にどうなのかと思うと、ひょっとするとマイナス面のほうが大きいのではないかと思うのです。
ヨーガ・スートラとか、サンキャ・カーリカとかニヤーヤ・スートラとか、
インドの宗教・哲学思想の基本経典は、それだけでは分からないものが多いですね。
上座部仏教にしろ、大乗仏教にしろ煩瑣な哲学大系ができたので、
初心者の暗記用アンチョコ、「南都(710)大きな平城京/鳴くよ(794)うぐいす平安京」みたいなのを作ったのかなぁというのが勝手な想像。般若心経はこの類の、本の入門者用かなぁと。
このあたりが聖書とは違いますね。
灸太郎さん、こんばんわ。
福音書を読んでも、たとえば聖霊とは何かということはあんまりわからないかもしれない。
しかし、祈祷中にはそれは出てくるのです。
一見、キリスト教の祈祷はでたらめに見えます。その中の言葉について取り上げてみると、誰それが言ったということがわからなかったり、必ずしも出典がハッキリしていないこともあります。
にもかかわらず、重要な概念に導いていて、しかし、それは毎日曜日誰でも聞くことができます。
自分は、スリランカのお坊さんが主催する集会に出たことがあります。その中では、参加者は三帰依文を唱え、仏に帰依することを唱え、どういうことを守るか唱えます。唱える内容はパーリ語でした。スリランカやタイの人は漢文を勉強する必要はなくて、ある程度パーリ語にも親しんでいると思います。仏教の基本的な概念や初歩的な教えについて、その集会で学ぶことができると思うのです。
日本の仏教の場合、そういうものが欠落しています。
誰もが十分な時間があって、漢文やサンスクリットが学べるわけではありません。
本当はそういうことを学べない誰かがすごく良い素質を持っているかもしれない。
しかし、なかなか仏教の本質的な部分に迫ることができない。
般若心経を何とかかんとか学んだ人というのは、「頭でっかちで分からず屋の舎利子というやつに、古い教えにこだわらんように言い含めた内容の話だな」と誰でも思うと思う。そして、滝に打たれては般若心経を唱え、お寺に行っては般若心経を写経し、掛け軸を作ったり、まあ大変です。
ですが、もともと仏教がそういう難しいものだったということは多分なくて、お釈迦様の話を聞いて農民も王様も遊女も盗賊もみな帰依しているのです。
そうそう、それと初心者が仏教混淆サンスクリットを覚えるのにちょうど
良いというのもあるかもしれません。
名詞(分詞含む)が中心でややこしい文法事項はないですから。
>ですが、もともと仏教がそういう難しいものだったということは多分なくて、
>お釈迦様の話を聞いて農民も王様も遊女も盗賊もみな帰依しているのです
当時の人間は、今の人間と意識状態がぜんぜん違ってたんだと思います。
お釈迦様がめざした意識へ感性で変性しやすかったんだと、私は推測しています。
時代を経るに従ってそれから遠のき、言語化された概念を通してしか、その意識状態に
たどり着くことが難しくなった。
日本へ仏教がつたわったときは、伝言ゲームで言語化された概念でさえ変性してしまい
ますますお釈迦様からとおざかった。。。。そんな状況なんでしょう。
ただ最近は生きたインド仏教を受け継ぐチベット仏教を学問として、あるいは宗教として
学ぶ日本人が少しずつ増えてきているので、これから状況は好転するんじゃないかなと
期待しているんですけどね。
正教の祈祷書、面白そうですね。日本語で読めるんなら読んでみたいなぁ。
灸太郎さん、こんにちわ。
なるほど、当時の皆さんは意識状態が違っていたのですか。
少なくとも前提条件が現代とは違っていたということはわかるように思います。
また、チベットの場合はどうかとかは私も考えていました。
今多くの外部からの影響があるということも本当だと思います。
考えてみればそういうことがあるから、私自身もテラワーダの祈祷を見たりできたわけですから。
キリスト教も今の状況が満足できるものということは言えないと思います。
自分もできる何かをしていかないといけないという気持ちはあります。