キリスト教徒の一日はどのようなものですか、という質問を見て、なるほどと思った。考えたことがなかった。
一般的にイスラムの習慣というのはよく知られている。1日5回礼拝しないといけない。ラマダンは断食しないといけない。
そういう意味ではキリスト教にも断食はある。それだけではなくて、1日の間の祈祷の中に様々な思想がちりばめられていることを知っている。
考えてみると、キリスト教の形式の中には実に様々な思想が入っている。難しい本を読まなくても、一日普通に過ごすだけで、そこにはいろいろな教えがある。
夕方は創造と堕落を象徴する時間である。次の日の聖体礼儀までの時間は、神のイコノミアを象徴する。神はエジプトから人々を導き出し、預言者を遣わし、人々に救いの手を差し伸べられた。
キリスト教は、教えがあって、その教えに基づいて形式が定まっているのではなくて、形式そのものが一つの大きな教科書になっているような、そういうことを意図して作られたものだった。
しかし、キリスト教がそうした様々な形式を備えた宗教であるということは日本で知られていない。
考えてみると、宗教というのは哲学や思想ではない。宗教というのは行いである。実行がない宗教というものはないのだ。
習慣というのは、大事な宗教の一環である。