墓のことを調べていて思い出した。前に修道院で写真集を作るのに日本のフィルムが必要だという連絡をいただいて、協力したことがあった。その結果とられた写真集には、修道院のいろいろな生活が記録されていた。
修道士が死ぬと布でくるまれて地中に埋葬される。そして、それはしばらくすると掘り起こされ、肉体が腐っていないか骨が香っていれば、それは聖人の証となるので、多分教会で認定されて、その肉体や骨は教会で聖遺物として使われる。そうでない場合、多分骨だけ掘り起こして、棚みたいなところに過去の修道士の骸骨を並べて安置する。そういう写真を見たことがあった。
それで、そういう写真をネットで探したら・・・あった、あった・・・
額に十字架と「修道士○○」と刻まれた骸骨の数々。
自分もこうなるのか。しかし、彼らは神に己をささげ、おそらく高い心境をもえることができ、修道院でずっと記憶されるのだ。自分とは比べられないかもしれない。それに日本の場合火葬されるので、骨は割れてしまうことが多い。栄養状態の悪い人だと火葬が済んだ時点で骨もボロボロだったりする。
しげしげ見て、少しショックを受けた後、壁紙にすることにした。どうせ自分も死ぬ。それまでの時間のことを思い起こさせるものとしては、こんないいものはないのではないか。
ブログを読ませて頂いてもう一週間以上経つのですが、色々、取り込んでいて遅くから失礼します。
この「骸骨」のブログを読んですぐに思い出したことがあります。
それは、「メメントモリ」という言葉です。
語源はギリシャ語なのでしょうか。
当時、所属していた教会の牧師から教えてられました。それは、「汝の終わりの時を覚えよ」と言う意味で、
ディアコニッセと言う女子修道院で
中の人々がすれ違う度に、この言葉を掛け合う、との事です。
汝の終わりの時を覚えよ、当時、高校生であった私は、感動してしまいました。
そして、神学校に進学してからのことですが、
ある聖書の教授が、「人間は死ぬんです」と、
静かにまた力強く語られたことを思い出しました。
あれからもう40年余りの歳月が流れました。
もう私も高齢者の仲間入りです。
本当にそうですね、人間は死ぬんです。
これは確実です。
でも、主イエスキリストは言われます。
死は、終わりではないと、。
「八方塞がり」でも天上が空いている、
私たちは年老いて、夕暮れへの道のりを歩いているのではない、昇くる朝日に向かって、夜明けへの道を歩いている。
そこには、神と共にパーティーを開く、愛餐が待っているのです。
私たち、主イエスキリストを信ずる者は、
八方塞がりでも天上が空いている、それを少しでも
信じ得た人は、もはや、火あぶりも、逆さ十字架も迫害も、恵みに満ちたものとなるのでしょう。
殉教していった信仰の先達者の方々の気持ちが少し解ってきたような気がする。
骸骨に対して、どうせこうなるのだから、ではなく、終わりの向こうの希望を見いだすこと、と思わせられます。
偉そうな事を言っている私ですが、
ようやく、ようやく、
八方塞がりの天上の向こうに何かが見えてきたような気が致します。
ネコさん、こんにちわ。
memento moriはラテン語です。私も断片的にしか聞いたことがなかったので今調べてみました。英語ではremember to dieなので、死ぬことを記憶せよ、みたいな訳になってしまうけれども、どちらかというと思い出せ、思い起こせ、みたいな意味合いの単語のようですね。
ネコさんがそういう心境に至られたということは、いろいろ御苦労もあったと思いますが、神様の恩寵ですね。