昨日、何か思い立ってサムエル記を読んでいた。サウルが先見者を探しているというところに行き当たった。預言者はかつて先見者と呼ばれていた、とサムエル記に書かれている。
自分は人から聞いて、預言者はかつて「見る者」と呼ばれていたという認識はなんとなくあった。一方サムエル記は読んだことはあった。ああ、このことか・・・
でもなぜ「先見者」なの?自分は「先見者」=「見る者」とは思わなかった。気が付かなかったのだ。
自分はヘブライ語はわからない。とても残念。しかし、原語はローエーרֹאֶהというらしく、これは「見る」という意味らしい。
ちなみにギリシャ語七十人訳ではβλέπωνという単語が使われており、これも字義通り「見る者」を意味する。予見とか先見のような意味はない。
自分がイラっとするのはなぜ「先見」なのか、ということ。先見とか予見という言葉は、日本語では先々のことが予測できるという意味になるだろう。
だけど、「見る者」というのは、一般的に摩訶不思議なものが見えることを意味する。英語でもseerという単語がある。見る者という意味だが、これはすなわち呪術師のことだ。
コトバンクの日本大百科全書の説明は
『旧約聖書』の「サムエル記」には、神がかり状態のなかで幻を見、それを伝える見者(けんじゃ)(ローエーrō,eh)のことが記されている。見者には、このようにシャーマンの性格がみいだされるが、預言者(ナービーnābî,)となると、ただ幻を見て語るだけでなく、預言者に臨んだ神のことばを語る性格が強くなる。
となっている。一方で「牧師の書斎」というホームページでは
予見者と預言者の違いは何でしょうか。「預言者」(「ナーヴィー」נָבִיא)とは神からのことばを直接的に語る者です。ですから、「主はかく言われる」というように、主のことば、あるいは、主のみこころを直接語る者を言います。しかし、「予見者」(「ローエー」רֹאֶה)は、主からの直接的なことばではなく、主による識別力をもって先のことを語る者のことを言います。
と書かれている。なるほど、こういう解釈なら先見者といえるかもしれない。この人だけではなく、ローエーは当然先見者だ、と主張しているページも散見される。
キリスト教徒と自称する自分がこういうことをいうのは、偉い方からまたお叱りを受けるかもしれないが、これは単なる日本の、あるいは日本に先立つヨーロッパのクリスチャンの傲慢ではないかと思うからだ。
他の文化的脈絡で、「見える」という現象がある。英語でseerということはすでに挙げた。カスタネダでもスペイン語で見る者と言っている。ユタでもイタコでも、見えるはずのないものがそこに「見える」からこそ、彼らはその役職にいる。
神懸かりなどと言われるけど、自分が目の前で見たのは、神懸かりもへったくれもない、その人には私に見えないものが見えていて、それが真実なのだ。その人は滔々と私にそのことを語った。そのことが真実であると私は知っている。私は自分が知りたい情報、すでに知っている情報について、その人には何も語っていないのに、その人はすべてを言い当てた。その人の目の前にすでにその光景が広がっているのだ。
またそれは未来とは限らない。先見とか予見とは違う現象である。
そして、その人は別にクリスチャンではないのです。
そして、直接には知らないけれど、そういう現象が高じて最後には「真実を語る声が聞こえる」状態があるということも聞いている。彼はその声が語ることが真実だと知っている。
なんでそういうことをいうのかというと、たとえば人が幽霊を見たというようなときに、何が起こっているかだ。それが「幽霊である」とか「三代前に死んだおばあちゃんである」となぜわかるのか。似た人が和服を着て暗がりの中で立ってドッキリを仕掛けているのではないとなぜわかるのか。
その「見る」ということは、知るということの直接的な感覚なのだと自分は理解している。そしてその声がその「知る」ということと一体になっているから、その声は真実を語る声なのだ。
自分では全くそんなことができもしない、知りもしないくせに、単なる傲慢から「聖書に書かれているから、これこれこういう理屈で、こういう人もおり、これこれこう違うのだ。ほかの野蛮人どもの異教の教えの呪術師とは違うのだ」と言ってるだけなのではないかと思う。
自分はその態度は違うと思うな。
そう思うなら、エリヤがバアルの神官と対決したように、そのクリスチャンがユタやイタコと対決すべきだと思う。ユタがいやせない病をいやし、ユタが見えない真実を見なきゃだめだ。世の中にはそういう問題に苦しむ人もおり、そういうことを助けようとしている人もいる。プラスになるならよいが、全部打ち壊して、自分は何もできませんというのでは恥ずかしいと思う。