白村江の戦いで日本が唐・新羅の連合軍に負け、班田収授法のもとで古代版一億総中流が出来た後、日本はもう戦争はしません、軍備は持ちませんということになった。ところが軍備を持たないということでは宮城の警備が出来ないので、律令(憲法)ではダメだということになっているけどそれだけは作りましょうということで律令から外れた組織、令外官として検非違使が作られた。つまり、今日の自衛隊みたいなものだと考えられる。
検非違使の司令官というのは判官と呼ばれていて、源義経が任命されたことで有名だ。
それで軍備を持たないと表向き決めてから、本当に外国と戦火を交えたのはいつなのかというと、元寇がそれにあたると思う。一般的にはそのときには鎌倉時代と習うわけだが、鎌倉幕府が日本の全権を持っていたわけではなくて、一応の都はまだ京都であり、国全体の正式の軍隊組織というのは検非違使であったのではないか?
元寇がやってきて、検非違使が役に立ったか?
いやいや、モンゴルは鎌倉幕府と交渉し、鎌倉幕府は京都の理屈ではなく、自分たちの理屈でモンゴルの使者を切り捨てた。それって、実際にはモンゴルから見れば「イスラム国」並みの扱いだったのかもしれない。本来あった日本政府とは別に、武装集団が鎌倉に本拠地を構えて、利害関係で気に食わん外国の使者は処刑しましょうというのですからね。
自分は歴史のことはそれほどちゃんと検証してはいないわけですので、詳しい方があったら教えてほしいのですが、上記のように考えると様々なことが考えられる。
1.いざ戦争になった時に自衛隊は大して役に立つことはないのではないか?
2.鎌倉幕府の軍隊というのは、古代日本の軍隊、防人が出ていたり、大宰府に水城を築いた軍隊のような大規模で組織だったものではなかったのではないか。
今自衛隊は国の組織であるから、大きなミサイルや戦闘機のようなものは当たり前に持っている。一方で、第二次世界大戦までのようにアメリカに負けないように自国の技術でしのぎを削っているということもない。いざ外国と戦いということになると、多分自前で武器が揃えられる状態ではなく、軍事的には他の国にずっと後れを取った状態になることは避けられないのではないか。そして、あれやこれやの法律上の縛りや、国としての建前がどうとかいうことで、結局戦闘はできないのではないかと思うのだ。
しかし、いざ外国が攻めてくるということになったときに、平和を建前にしていた平安京は戦うことが出来ず、自分の土地が奪われるという利害関係を持っていた土着の武装勢力が戦いをすることになった。と、そのやり方は現在で言えば機関銃やロシアからもらいうけた迎撃ミサイルです・・・という感じになったのだろうと思う。モンゴルは本気で攻めてきたのかもしれないが、現在で言えば、大義名分もないのに突然東京に原爆を落とすというようなことはできない。ちょうどベトナム戦争がそうだったように、最新式の航空機や戦車部隊に、なんとか日本ゲリラが勝った、というようなことだったのではないだろうか。
イラクやウクライナで起こっているようなことは、今から世界各地で起こっていくと見るべきだと思う。かつてのナチスドイツやソ連のような組織だった軍事国家が覇権を争う時代は終わった。日本や中国で起こることも、やがてはそのようなことになっていくのではないだろうか。
自衛隊の元将官たちによると、海上自衛隊で一海戦半、陸自ではどんなに節約しても一週間
くらいの弾薬しかないそうです。
練度で言えばトップクラスだそうですが、
玉がなければどうしようもないというはなしです。
陸自の人なんか、米国陸軍の軍楽隊の軍人さんより、実弾使って練習できないそうです。
灸太郎さん、こんにちわ。
そうですか。さもありなんですね。