前からあるんだけれども、今日郵便局へ向かう途中
「イエスキリストは正しく裁く」
という、看板が見えた。
あ! そういうことか!
聖書に、多分「イエスキリストは正しく裁く」とは書いてないでしょう?
「父は誰をも裁かない。裁きのことは子にゆだねられたからである。」(Ioannes5.22)
「人を裁くな。自分が裁かれないためである。」(Matthaios7.1)
しかし、これは往々にして日本語に意訳されている。原文は「人を」とか「自分が」なんて書いてないのだ。
「父は何をもジャッジしない。すべてのジャッジを子に与えたから。」
「ジャッジするな、ジャッジされないためだ。」
ギリシャ語のkrineiを単純にジャッジと書いた。判断すること。決定すること。
そりゃ、その通りだ。父は判断しないもの。判断するのは、子なのだ。
これって、私が毎度そのことを表現しようとして、探している表現そのものなのではないか?なんで、こんなその通りの表現が聖書にあるのだ・・・いやいや、聖書は変わっていないさ。最初からそのことを言おうとしていたんだ、多分。
こういう意味でいいのか。多分。
言いたいのは、判断するのは子だ、ということ。そして判断するなということ。そうじゃないのか。
ジャッジしないのは、いつともしれない先々で、どことも知れない場所で、誰かわからないほかの人をジャッジしないのではなく、今しているジャッジをするな、ということだ。なぜなら、ジャッジすることは子にゆだねられたからだ・・・