生神女(しょうしんじょ、theotokos)というのは、新約聖書に出てくるヨセフの妻、救世主を生んだマリアのことである。このブログの読者には、プロテスタントの方もおいでになると知っている。あるいは不快に思われる方もおられるかもしれないが、ご容赦いただきたい。
彼女をどう呼ぶか、ということ自体、本当は大問題である。日本ではカトリックさんなどから紹介されて一般的に「聖母」と呼ばれている。しかし、英語での一般的な呼び方はVirgin Mary(処女、童貞女マリア)である。聖母が一般的とは言えない。
教会は、彼女が生んだ救世主は、ただの人間に過ぎないが途中で神になったのか、そもそもの神であったのかということを論じて、そもそもの神だということを主張し、それを信仰の条件とした。後で述べることになると思うが、この点は正教会、カトリック、プロテスタントを通じて変わらない。世の初めから神であったものが特別の胎に宿ったのだから、神を生んだ特別の女だ(θεοτόκος、theotokos)であるということが431年のエフェソスの公会議において定められた。当時それに反対して彼女をキリストの母と呼んだコンスタンチノープル総主教ネストリオスの意見は退けられた。
一応教会の決め事では、彼女は生神女マリアなのです。そして教会の伝統から全く分離した女性というものを想定することは、これはあまり意味のないことだと思う。
なので、今後記事では彼女については生神女と呼ぶ。
主が十字架にかかった時、他の弟子が捕まるのを恐れて逃げた中で、彼女と福音記者のヨハネがその場に残って、主の最後を見届けた。主はその時にヨハネに母を預けた。その後教会の発足時、つまり聖神降臨などの場面では他のお弟子さんとともに教会の中心的な働きをされたことになっている。
エフェソスの公会議で、生神女はヨハネとともに磔刑後10年ほどしてエフェソスにたどり着いて、そこで余生を送ったということが公に認められた。エフェソスには彼女が晩年を過ごしたと言われる家があって、観光地・巡礼地になっている。ちなみに当時はトルコという国はまだ存在せず、現在のトルコの西海岸はギリシャのイオニア地方と言われていた。
公会議の資料かわからないが亡くなったのは64歳と言われている。14で出来た息子が33歳で磔刑ということはそのとき47歳ぐらいだろうか。57歳ぐらいでエフェソスに来て、7年ほど過ごした、ということになるのだろうか。アトスでは彼女がキリスト教を伝えたと言い伝えられている。距離を考えれば、これはあり得ないことではないと思う。実際若いころは一度エジプトにのがれているわけだし、船旅を考えれば不可能ではないと思える。