さて、今回記事にしたのは、日本のクリスチャン、特にプロテスタントの一部の派の皆さんが「聖母マリア」という言葉に激しい拒否反応を示しているからです。
おおよその主張は、こういうことになると思う。
- 生神女マリアを拝むのは間違った行為である。
- 生神女の像または絵を拝むことは偶像崇拝である。
- カトリックや正教会は生神女を拝んでいる、乃至生神女の像や絵を拝んでいるので救われない。
- 当初は生神女を拝む習慣はキリスト教にはなかった。生神女に対する信仰、崇拝、崇敬といったものは異端の女神崇拝から取り入れられたものであって、キリスト教の信仰に本質的なものではない。
一応プロテスタントさんの名前を出したのだけれど、そうばかりともいえないところがあって、どこまでが本質的な問題なのか、旧教側もそういう傾向があるのです。
というのは、かつてこういうことを経験したからです。
ギリシャのイコンの写真で、その前に紐がかけてあって、様々なものがそこにぶら下がっている写真があった。おそらく生神女を信じる人々がそこに献じたのでしょう。そこに手の型とかそういうものがぶら下がっていたらしい。それを見た日本人の正教の司祭が、「そういう現世利益を頼むのは間違っている」という趣旨のと仰って、憤慨されておられたのです。
当のギリシャ人からしたら「なあ、お前何言ってるんだ?」ということになりますよね。実際に生神女が足を踏み入れて2000年になるギリシャの人々が、正教が伝わってわずか100年いくらかの日本の司祭に批判されてしまっては。現世利益がダメなら、主が世界においでになる間に、手を置いて癒してくれた方はどうなるのだろう?
しかし、ひょっとすると日本の司祭さんのほうがギリシャ人より筋の通ったことを言っているのだろうか?
プロテスタントの皆さんにしても、そういう激しい拒否反応を示して、「マリアだ」と言えば待ってましたとばかりに罵倒する人ばかりではないのかもしれない。カトリック・正教のやってる絵に対して拝むような行為は偶像崇拝ですよ、だからと言ってマリアさんはマリアさんでもちろん尊崇してますよ、といういわば穏やかな方もおいでになるのだろう。
ただ、一般的な傾向として一種のマリア・アレルギーみたいなのが日本の教会にはあるように自分には感じられる。