キリスト教でも仏教でもそうなのだけれど、なんというのか、人は素直じゃないと思う。それが一番いけない。
彼は、お前を救うために来たのだ。だからお前が救われないと、彼もまた失敗したことになる。仏陀もキリストも、お前がどうしようもない悪い奴だということを責めたりはしない。盗賊も売春婦も皆彼を信じて救われた。そのようにすんなり信じられないわけですよ。
別にわからないことを信じろというわけではない。わかることはわかってから信じればよい。ただ、最終的に自分には絶対わからないことを教えに来られたのだ、と信じてしまうことぐらい馬鹿げたことはない、と私は思う。絶対お前にわからないこと、絶対お前には救われようのない真実、そういうことを「これが真実なのだ」と仰ったとすれば、彼は救世主でもなんでもないのだ。
そういう意味じゃ、プロテスタントさんは一定の評価ができると思う。
間に誰かを介せず、直接神と自分を問題にしようとしたわけだから。
自分としては、やはり違和感があるのは、真宗さんですね。真宗に一生懸命な皆さん方というのは「お釈迦様の仰ることはわからない。お釈迦様の修業は難しくてあなた方にはできない。だから阿弥陀様に頼みましょう。」ということを嬉々として語る。よくそんなことが言えるものだと思う。お釈迦様のおいでになった時に、遊女が祇園精舎を寄進した。千人を殺した盗賊が弟子になって阿羅漢果を得た。世の中の最低の人々が彼によって救われたと言い伝えられている。お釈迦様の仰ることが難しくて理解できないのなら、浄土に行ったところで阿弥陀様の仰ることも理解はできないだろう。
しかし、そういう傾向は真宗さんだけではないとは思います。どうしても、「どこか知らない、誰も知らない、見たこともない、向こう側ではこういうことが言われています」と人々は考えたい。それが一番間違っていると思うな。あなたがわかるように、大事なことを一生懸命書き残したのだ、という風になぜ考えられないのだろう。