キリスト教がこれほど神秘的で、いわば密教的で、豊饒な文化を持っているにもかかわらず、日本人の多くがなんとなくキリスト教がわかったような気になっている。なぜだろう?それは福音書、新約聖書が誰でも簡単に読めるからだ。そして西洋人は熱心に新約聖書を日本に紹介した。
自分も小学校の時に、新約物語、旧約物語というような本があって、旧約や新約のあらすじを知って、中学校ぐらいではまあまあ新約聖書を読んだ。その気になれば、そしてわざわざ原語のものを読もうというのでなければ、別に普通の人に手が届かないものではない。
普通に考えて、たとえばヘミングウェイの「老人と海」を読みましたか?と言われて、別に英語で読んでなくても訳されていれば「読みました」と言っていいでしょ?別にカミュでもいいですよ。「異邦人」読みましたか?フランス語で読んでなくても、読んだことには違いない。
で、読んで、字面はわかったような気になります。だから、素人さんでも「キリスト教はこんなもの」と考えることができる。特にプロテスタントさんの場合は、「聖書のみ」という建前です。マルチン・ルターも元は司祭だから、三位一体の教義とか悪魔のこととか、聖書に書いてないキリスト教の前提があったうえでプロテスタントを作ったのだろうが、しかし、一旦「聖書のみ」ということになってしまうと、「それ、聖書に書いてないから、なくてもいいじゃん」というのが通ることになってしまう。
福音書の中の内容というので、我々が読んで理解することにはいくつかの種類や幅がある。
1.主の行われたことで、日常生活の範囲から逸脱しないこと。たとえばどこそこに行かれたとか、説教したとか。
2.奇蹟。主の行われたことだけど、完全に日常生活の範囲から逸脱している。たとえば水の上を歩いたとか。しかし、それは奇異ではあるが読んで理解できないことではない。
3.教義的なこと、教えの中で、比較的平易に理解できること。たとえば「愛し合いなさい」とか。真実の愛が何かは別にして・・・ま、姉さんよりはわかってるわよ、というわけだ。全くわからないわけではないし、その気になればクリスマスにプレゼントを用意することだってできる。
4.教義的なこと、教えの中で、通常の生活の文脈の中では何を言っているのかわからないこと。たとえばヨハネの福音書の冒頭部分などはそうでしょう。それから「人の子」がどうだとか「聖霊」がどうだとか書かれても、それぞれの言葉が何を指しているのかわからない。
5.たとえ話。
6.一応出来事なのだけれど、そもそも教えの上での理解や前提がなければ、その出来事そのものが説明がつかないような事柄。たとえば変容とか主の洗礼とか。ヨハネとモーゼが現れて服が白く変わったとか、天が開けて聖霊が鳩のように舞い降りたとか、そもそも教義的な前提がなければ何が起こったのか全く説明ができない。
でね。
所謂、この福音書のわからない部分、簡単に理解できない部分について「あっ、そういうことか!」とわかりましたか?誰かから、ポンと膝を打つような明快な説明を得たことがありますか?
それを本当に誰かが理解していたら、すごくキリスト教は広まっていると思う。逆にすごく広まっていたときに、そういうことを誰も知らなかったと考えるのは馬鹿げている。キリスト教に批判的な人々は多くそういう態度を取る。本当かどうかわからないことを盲信していたのだと考える。常識で考えてみてごらんなさいよ。人類はそんなにバカじゃないよ。
あのヨハネの福音書の冒頭部分、あれが難解だから、教会に来ている人は誰もわからない、諸説あって紛糾している・・・それが真のキリスト教の姿であるはずがない。みんな当たり前のように創造の神秘について知っていたはずなんです。
3世紀、4世紀の教父・師父と呼ばれている人が活躍していた時代、福音書には書いてないけど、当然の前提として人々が知っていたことがあると私は思う。たとえば聖霊の遍在などという表現はその頃の書物には出てくる・・・らしい。三位一体に関する表現にしても、公会議で決まった信仰箇条としては残っていても、多分聖書の中に「聖霊は出て、子は生まれるのだ」ということの出典は明確には求めることができないだろう・・・と思う。
あるいは私が不勉強なだけで、すべて三位一体の教義が福音書に書かれているという人がおられるのなら、ご教示ください。ただ、本当はそれも大して意味があることではないと思う。たとえばあなたの三代前のおじいちゃんが直接キリストにあって教えを聞いているのに、わざわざ「この本に書かれてないから、あんたのおじいちゃんが聞いたことは嘘です」などということがまかり通るだろうか?
もしそういうことがまかり通ってしまうと、救世主はイエスである必要はなくなってしまうと私は思う。文書や文言で伝えて済むのなら、預言者で十分だ。マホメットで十分なのである。おじいちゃんが直接教えを受けました、救われました、私もお願いしますという前提がなければ、キリスト教でなくてもいいことになってしまう。
が、閑話休題・・・要するに聖書に書かれていない教義が存在していたし、現在も存在しているのだ。
というよりは、福音書は一年生用の教科書ではないのである。読む人は、どこかで聖霊が何か、人の子が、天国が何かを知り、人の子の日を待ち焦がれている人であることが期待されている。そして、その期待している内容は、別に2000年後のことではなくて、その人が人生で真剣に取り組むに値することだったはずだ。