ある教義、ある思想、ある規則、そういったものがそれを理解する人なしに成立するものだろうか?
赤信号では止まる。規則である。止まらないと誰かを轢いてしまうかもしれない。道路を横断する側の人も反対側が青信号になっていて規則を知っていて渡っている。
もし仮に、その人が誰もいなかったら?多分赤信号で渡っても良い。誰も轢かないし、とがめられることもない。あるいは逆にたくさん人がいても、誰も規則を守っていなかったら?その場合も赤信号は関係ない。青信号でも人が飛び出してくるかもしれない。
その「規則」の実体は、実は独立して存在しているわけではない。私も守る。あなたも守る。それだけのことだ。
キリストが2000年前に教えた通り、「人のために律法があるので、律法のために人があるわけではない」
信号は恣意的なもので、その重要性も小さいかもしれない。
聖書だったらどうだろうか。
聖書の一句があって、その一句を理解する人が誰もいないのに、それは成立するだろうか。
聖書の場合には、聖書に書いてあることを引き合いに出して「聖書の一句は世が終了するまで廃ることはない」と主張する人もいる。だが、一般的に本について、その本を理解する人がいなければ、その本は存在しないと言ってもよい、と自分は思う。
道徳的な本だったとしても、物理学の本だったとしても、「これは素晴らしい本だ」と言えるのは、その本を理解する人がいるからだ。わからない人もいるだろう。しかし、わかる人がいる。なるほどと思う内容がある。だから、その本は素晴らしい本だ。
本自体は、紙でできた物質である。燃やせばなくなる。なかなか難しいことだろうが、しかし世界中の聖書を一つの場所に集めて火をつけて燃やしてしまうことも物理的にはできるだろう。その際の「聖書」の実体とは何なのか。聖書に書かれた事実なのか。事実とは何か。ある出来事が起こって3人の人が直接見た。その3人は口外することなく死んだ。その事実は存在しているだろうか。
これ、自分は当たり前のことを言っているつもりなのだけれど、よく話の中で「聖書に書いてあるから正しいのだ」というような人はいるのです。聖書でなくてもいいんですよ。ほかの原則、ほかの規則でもいい。まるで「律法のために人があるのだ」みたいに議論を展開する人はたくさんいる。
誰かが見たから正しい、書いた人は何を書いたかわかっていて、読んだ人も同じことがわかったからそれが正しい。当然ですよね?それが「あかし」というものだ。
しかし、そうしたあかしは全く無視して「書いてあるから正しいのだ」「絶対に正しいのだ」という風に話を持っていく人は少なくない。
でも、それは責任の所在を包み隠しているだけだと自分は思う。「それは何かわからないから、半紙に包んで仏壇にあげておきなさい。触っちゃダメよ。」というわけだ。
死ぬまでに、お前もその包みを仏壇からおろしてみて、中身は覗いてみたらどうだ、と自分は思う。
最近殺人が多いですが
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180901-00000005-asahi-soci
島根江津付近ででゲリラ雷雨があったと聞きました
管理人さんは大丈夫でしたか
りんねさん、こんにちわ。
記事にしました。
雨の心配ありがとうございます。昨晩は激しい雨でしたが、何事もありません。
稲刈りがすんでいてよかったのですが、前の田んぼは湖のようになっています。