もとを取ろう。
水は沸点に達しないと沸騰しない。
パリサイ人が宮へ入り、自らの善行を述べ、自分の守っている律法を主張した。ところが、税吏が門の外で涙を流して自分の行いを悔いて胸を打って帰られると、神は税吏をお許しになったという。
だけどさあ、これ本当?
じゃ、今風に考えてみますよ。
若いころ贅沢をせず、こつこつ働いて、酒を飲むでもなし、パチンコや競馬をするでもなし、家族を養って真面目に暮らしてきた人。
一方、若いころからろくに働かず何人もの女をたぶらかし酒やパチンコにうつつをぬかしてきた人。
それで最後の一瞬に、「ごめん。俺が悪かったわ。」といいさえすれば、どんなことをしても許される?
もちろん、本当はそういうことが言いたかったのではないと思う。
いままで、真面目に行動してきた人、目的をもって何かをしてきた人は、そのもとを取ろうじゃないか。
英語を勉強してきた人でも、英検の試験に落ちれば、履歴書にそれを書くことはできない。「英語を一生懸命勉強してきました」それはそうかもしれないが、英検一級じゃないよ。
一生懸命、田んぼを作ってきた。だが、風が吹いて稲が倒れてしまった。それでお米が取れなければ、収穫はなかったのだ。お米が取れて初めて収穫だ。ちゃんと最後までできるようにずっと草を取ったり水を調節したりしてやらないといけない。それはちゃんとお米が取れるためだ。
せっかく今までの人生を苦労したなら、ちゃんと霊的なもとを取ろう。実をならそう。華を咲かせよう。がんばってつぼみまでつけたとしても、華まで咲かせなければ、その努力は実を結んでいないのだ。ちゃんと一歩進んで、華をつけよう。