少し前に知恵袋で「論より証拠ですよね?」という文を見てからずっと引っかかっていろいろ考えていた。
大体、「オカルト」と呼ばれるものは通常以上に「証拠」があるのである。
ビッグフットはいるかどうか?
しかし、パターソンのフィルムがあるではないか!
(ビッグフットというものをご存じない方もおいでかもしれない。アメリカやカナダの森林 にすむ巨大な毛むくじゃらの類人猿のような生物で、いろいろな目撃情報があり、足跡が発見されたりもする。現れるときには口笛のような音がするため原住民は口笛を吹く人(ウィスラー)などと呼んでいるらしい。ウィスラーってバンクーバーの北にそういうスキー場があるじゃないか?前に日本から世界ふしぎ発見の取材チームが行った時も足跡が発見されカメラに収められ、地元の新聞にも載ったそうだ。
さて、パターソンフィルムというのはこのビッグフットが歩いているところを8mカメラで撮ったものである。人間より一回り大きな毛むくじゃらの2足歩行の動物が歩いている後姿を撮影しているのだが、一瞬この生物は後ろを振り返る。閑話休題・・・)
このフィルム自体が偽造だとかいろいろいわれてはいる。だがそれはいわば「論」なのだ。いろいろな人がパターソンのフィルムをまねて同じように撮影しようとしても、成功していない。誰も「証拠」を出せていない。
確率的な問題もそうである。オカルトとか科学的には信じる足りないといわれているあらゆる現象は、その理屈がないだけで、その確率は通常科学的に確かだといわれるよりはるかに高い確率で認められる。先日の記事でも書いた通り、幽霊は1割の人が見ている。問題は幽霊とは何か、どうしてそういうものが見えるのかという理屈のほうであって、事実は先に存在する。血液型性格判断、占星術、あらゆるものがそうだ。
オカルトだけではなく、大きな社会現象については同じことが言える。放射能の被害というようなものがそうだ。広島に原爆が落ちて、いかに放射能が恐ろしいものか人々は叩き込まれた。ところが福島第一原発が爆発して白血病で死んだ作業員が出たり甲状腺がんにかかる子供が出たりしても放射能は安全だと学者やメディアが主張している。
それだけではなくて、実は目の前の事実を人は認識していない。目の前に三次元の空間など広がっていない。神とその言葉が事実なのだ。しかし、それで一時的にそういう事実を見られるような体験があったとしても、なおその事実は受け入れられない。それを表現する言葉がないからだ。
死んだ人が現れて大事なことを教えてくれた、などということもそうだ。一度そういうことがあって、そのときはありがたいと思ったりしても、自分の中に常にそれを受け入れられる思想がない人は、まるでそんなことはなかったかのように忘れ去ってしまう。
つまり、証拠より論なのだ。
ヒトラーが言ったように、「嘘も百辺言えば真実になる」というののほうが正しい。