先日『どれが本質的に存在するのか』という記事を書いた。なんとなく考えてきたことでもあり、エニアグラムを説明しようとなんとなく書いたことなのだが、書いた後で自分でびっくりしている。
距離、空間というものはそれ自体で存在しているわけではない。力が距離を生む。だからといって力と速度と距離の間に成り立っている数学的関係を否定する必要はない。
そんな単純な謎解きでいいのか?
デモクリトスの原子論やエレア派のゼノンを考えるときに、そこには次元が存在しておらず、力が存在していない。なぜ空間や時間が存在しているように見えるのか?それは存在していないのだ。そして、それを単に考えるのではなくて、見なくてはいけない。
それを見るとき、あなたはいない。なぜならあなたは時間や空間だからだ。思考が時間や空間を生む。理性的な思考において、視界に距離はない。視界に見えるあそこは実はここのことである。網膜に映った像があの山である。そうであるにもかかわらず、私たちは決して空間や時間から逃れることができない。なぜなら、私たちが思考そのものであるからだ。
世界が壊れるときにあなたはいない。しかし、仮にそこにあなたがいなかったとしても、そこで必要な数式が成り立たないと考えるのはばかげている。もし禅のお師匠さんがそういう指導をしているのなら、そのお師匠さんは学がなくて馬鹿なだけだ。江戸時代の坊主はそれで良かろう。ほっておいたらいい。だが、君は現代人なのだ。学校も卒業している。悟ったとたんに元素の周期表の順番が変わるような教えはありえないのだ。
しかし、ではいったいどのように世界は存在しているのか。
実は力も次元も存在している。空間は存在していない。力が空間を生むのだ。
そんな簡単な謎解きでいいのか?
しかし、力が距離を生むと言ったって車の力もあれば人の力もある。車がある時間で走れる距離とたとえば音がある時間で伝わる時間とは大きな隔たりがある。そしてアインシュタインはその統一性を光に求めた。力に対して必ず反作用がある日常生活のレベルを基本に考える必要は多分ない。ひょっとすると光である必要もないのかもしれない。最初は空間などなく、「光あれ」で空間が生まれる。それで、ひょっとすると問題ないのではないか?
なぜこのことがそんなに難しいのだろう?それは、空間が存在するということは暗黙の日常生活の前提になっているという、それだけのことに過ぎない。何人もの人が同じ理論を考えて同じ数式を学んだとしても、その人たちは同じ世界に住んでいるとは限らないのだ。一からそういう考えを発展させることが難しい。なぜなら、空間が存在するという考えから組み立てて世界の数式を学んできたからだ。どこから取りかかっていいのかわからないのだ。
頭の中で折に触れて「力が空間を生む」ということを確認する。頭の中でそれを想起し、祈りのようにそうではないかと見まわし考え直す。すると、普通の世の中では不思議に思われている色々なことが、当たり前に説明できる。たとえば唯心論的な考えで、ある光景が見えていて、次の瞬間別の光景が見え始めてそのまま続いたとする。これ、多分第三者が見てたら瞬間移動だよね?しかし、いくら唯心論的な考えでそれが説明可能だったとしても、第三者から見た外的な考えでそれが説明できないというのは良くない。そのときに障害になっている考えは、空間という考えなのだ。
しかし、仮に力が環境と呼応して空間を生んでいるという説明がそもそもできるのであれば、別にむずかしいことはない。少なくとも不可能ではない。問題は目の前のこの世界で、そもそも空間が存在していないということが明らかで、力が空間を生む、あるいは不可能性を生むということを確認できるかどうかなのではないか?