先日ガッチャマンの記事を書いた。およそ想像を絶する駄作で、ある程度原作の世代の人間からすると、どこをどうひねればこういう奇妙キテレツな化け物が出てくるのか、全く理解できないような代物だ。
それは結局誰も熱意を持っていなかったということだ思う。
会社は50周年記念だかなんだかで映画を作りたい。テレビ局と映画会社が金を出す。子飼いの監督とタレントを引っ張ってくる。そして、「自分たちはあの人気漫画のガッチャマンの映画を作っているのだ」ということを忘れて突っ走ってしまうのだ。CGの人ですか。ちゃんと作っているじゃないです。役者さん?台本通りちゃんと演技してますよ。それぞれの人は一生懸命やっている。いったい何が悪いというのだ?
でも、誰もガッチャマンだと思っていないんだよ。原作を知っている人が誰かひとりいれば、「おい、ほんとにこれでいいのか」と言ったはずだ。
だけど、考えてみると、他の業界でもそれはあるかもしれない。
自分はソフトの開発の世界というのは、ある程度経験してきた。何人もで仕事をする場合、お客様の要求をまとめ、機能の仕様をまとめ、それを実現するための設計書を作り、それらに基づいて開発をして、テストをする。
それはその通りなのだが、初めてソフトの開発をする場合、どこに焦点を置くのか、どういうものが必要なのか、お客様自身も明確でない場合がある。お客様は多方面にメールを送りたいと思っているかもしれないが、実は掲示板が一個あれば解決する問題なのかもしれない。しかし、そういうことがわからないまま、あれもあればいい、これもあればいいといって、機能を追加し、業界を知らないSEが仕様書を書く。そしてやたら難しい開発をして出来上がってみると何一つ必要なものが出来上がっておらず、おまけにできたころには古くなっている。自分は関わっていないが、結局そんな風にして3年も4年も出来上がらなかったソフト開発を見たことはあります。
昔勤めていた会社の役員さんが「一人の開発者に任せると案外いいものを作る」と仰っていたのを思い出す。
一人の技術者だと、この技術を使えばこれができるということが見渡せる。必要としているものの味噌もわかる。では、こういうものがあるべきだ、というのものをとことん突き詰めて作れば、まさに「案外いいもの」が出来上がるわけだ。
だから、結局業界の都合みたいなものを優先しちゃダメだってことだろうな。
占星術なら占星術でも、ここは譲れませんというはっきりしたものを持ち続けるべきなのだろう。たとえ、それで儲からなくて仕事が掛け持ちだったとしても、「あんた、これは占星術じゃないじゃん」というものにしてはいけないね。