昔の同級生とかを考えると、社会的にいい立場にいる人は結構いる。収入も貯金もお家も結構なものだろう。
本当は私も結構いい学歴とか持っているんだよ。だけど、若いころいいところに就職してどうこうというようなことは考えなかった。だからといって就職しなかったわけじゃないし真面目に働きもしたけれども、いろいろあって当面はすっからかんだ。ま、いいさ。自分の選択なんだしな。それにその結果、自分しか得られなかったこともあるし。
だが、昔柔道とかやってたんだ。もし、自分がどこかの都道府県の警察とかに入ってたら、結構お偉いさんになれてたかもな。
しかし、県警や官公庁とかで、部長職にあるような自分の姿を想像してみると、それが必ずしも幸せとも言えないような気がしてきた。たとえば部下をどこかに連れて行ったりしないといけないんじゃないか。上の偉い人にへいこらしないといけないだろう。歳暮や年賀状は沢山ださないといけないだろう。なんというか、心に余裕が持てないと思うんだ。あちこち気を使わないといけないだろうし、次の仕事でミスがないようにしないといけないし。それが使命感にあふれて楽しければ問題ないんだ。しかし、そうばかりとも言えないかもしれない。やーさんとぎりぎりの交渉をしないといけないかもしれないし、パチンコ関係の団体からちょっと危ない誘いがあったりするかもしれない。部長職にあって、それなりの収入があっても、いろいろな人生の問題があって、本人は極めてつましく生きているのかもしれない。
漠然とそんなことを考えていて、ひょっとして、精神において貧しいっていうのは、そういうことなんじゃないかと思った。
よく知られた言葉で「金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい」というのがある。金持ちが天国に入りづらいなら、「貧しいものは幸いなり」でいいじゃないか。なんで「精神において」なんだろう。
金持ちというもの、多分当時の金持ち、ステータスの高い人というものを考えた時、やはり彼らには人間のつきあいというものがいろいろあって、そのつきあいにおいて、自分を自動的にある位置に位置付けてしまうと思うんだ。自分は部長だから、いっぱしの社会的立場があるから、というような。
社会的な立場との自己同一化というのは、それ以外の何かを持っていない限り絶対防ぐことができないと思う。
別に金持ちだからダメ、部長だからダメというわけじゃないんだろうな、その金持ちや部長ということが心の縛りになっていなければ、別に部長や金持ちであってもいいんじゃないか。「ラクダが針の穴・・・」という言葉が出てくるきっかけになった人は、いろいろなユダヤ教の決まりを守って両親も大事にしていて、金持ちであるという以外非の打ちどころのない人だった。キリストがあそこで「あなたの金を全部貧しい人にあげて私についてこい」と言ったら、それが出来なかったのだ。
逆に貧乏ならいいというわけじゃない。貧乏でも毎日貧乏を嘆いているような生活なら、いっそ大金持ちのほうがいいだろう。だが、貧乏な人、社会的なステータスの低い人というのは、現実問題としてそのステータスに対して自己同一化してしまうという危険性が少なくて済む。
アトスで歌われているような真福九端というのだが、受難週ではなくて普通のマカリズミはこんな感じだと思います。
こんにちは、ネコです、
今日は、プロテスタント教会では「待降節第一主日礼拝」でした。
アドベントです。
東方教会、ギリシャ正教会などは待降節の始まりも少し違うのですか?
聖書はこちらの箇所が読まれました。
ザカリア夫婦には望んだが子供が出来なかったが、天使により
「あなたの望みはきかれた、あなたの妻エリザベトは男の子を産むであろう、その子にヨハネと名づけなさい」
と告げられた事に対して、
「何でそんなことが出来ましょう、私は老人です、妻も年をとっています。」
待降節によく読まれる聖書の箇所ですね。
信じていると言いながら、「そんなことはありえないでしょう」と言う不信仰な場面を
とらえた箇所といわれています。
「あなたは信じるか」
「精神において貧しいもの」とはどういうことでしょうね。
お金持ちでいいところに就職して、確かにそれらの人はそれなりの苦労があり、つましい生活をしているようです。
心が貧しいということは、私が思いますには、
多分、他者のことが目に入らなくなることではないかと思います。
お金持ちで付き合いも多く、(大変だろうけれども、)付き合いは付き合いでしかなく、
そのほかの他人のことなど見えなくなりやすい、あるいは、見えていないことに気がつかない。
社会的にステータスの低い人、同一化しやすい、それもそうです、、
毎日、貧乏を嘆いているようでは、、、これもまた、
自分の貧しさにとらわれて、なかなか他者のことが目に入らなくなる。
(人はそんなに多機能ではないような気がする)
それが「精神の貧しさ」ではないだろうかと思う。
今日の聖書の箇所「神に出来ないことは何もない、あなたは信じるか」
これも関わってくると思う。
、、。
ネコさん、こんにちわ。
正教会ではクリスマス前に聖フィリップの斎という断食の期間があります。
もっとも日本の正教会で今からフィリップの斎だから断食しましょうというような話は聞いたことはありません。
復活大祭が最も大きな祭りで、斎も祝い事も復活祭が格段に大きいのです。
クリスマスの前の日曜日は、彼の系図を記憶するという意味でマタイの最初のところが読まれます。
ザカリヤに比べて、マリアは素直に受け取ったということは神父さん方は説教の中では仰います。
仰っている他者のことが眼に入らないというのは、こころが貧しいということですか、こころが貧しくないということですか。
普通日本語で心が貧しいといえば、悪いことを指して言います。
ですけど、福音で精神において貧しいものは幸いだといわれています。
ということは、他人のことが眼に入ることが幸いだということでしょうか。
しかし、まさにその辺のニュアンスが日本語と違うところだと私も認めます。
ネコです。
いつも間が抜けていてすみません、ここしばらく取り込んでしまいまして、
スルーしようかと思ったのですが、やはりやはり、気になって、。
「心の貧しい者は、幸い」
「日本語で心の貧しいということは悪いことを指している」
そのような貧しい、そして心に余裕のない自分、
それらさえも「幸い」といって下さる神、
そういう意味でしょうか?
微妙な言葉のニュアンス、難しいですね。
画像は「普通のマカリズミ」とのことですが、素晴らしいですね。
クリスマスの前にはマタイ伝の最初が読まれるとのことですが
それはマカリズミではなく、詠唱ではなく文章が読まれるのですか?
マカリズミは男性合唱で、四部合唱ですか?
やはりギリシャ語ですね。
この度のクリスマスには、私の連なる教会で
若い20歳の青年が、
信仰告白をして洗礼を受けます。
素晴らしいです。
神の御業をしっかり見せていただきます。
ネコさん、こんばんわ。
20歳の青年の洗礼、おめでとうございます。
良い実を結ばれることを。
マタイ伝の最初は、文章が読まれます。
聖体礼儀中に必ず書簡と福音の一か所ずつが読まれます。もっとも読むと言っても、それもそれなりにメロディックに司祭(輔祭)は読まなければなりません。
それから、ギリシャ・ビザンチンの聖歌は単旋律です。イソンといって、低音の一つの音を継続的に出すパートがありますが、旋律は一つです。
ロシア聖歌の有名なものは四部合唱です。有名なもの、というのは、いくら有名でも教会に来る人が少なければ四部で歌えませんから。しかし、メロディ自体がそういう理論のもとに作られています。
日本語の貧しいとは違うと思います。
簡単に言って、日本語で「心の貧しい人」というのは「狭量な人」「ケチな人」などのことをいうと思います。
貧しい人ですら幸いなのだから、豊かな人はもっとめでたいのだ・・・というではないでしょう。
まさに「豊かな人ではなくて、貧しい人が幸いだ」と言っていると思います。豊かな人というのは、まさに人もうらやむ豊かな人だと思います。
右の手で施しをするときは左の手にわからないようしなさいと主は仰いました。いろいろな人にわかってしまった人は、もう報いを受けてしまっている。
精神において貧しいというのは左手にわからない人だと私は思います。
ありがとうございます、ネコです。
お書きいただいたコメントですが、
右の手で施しをするときは左の手にわからないようにしなさいと主は仰いました。
「精神において貧しいというのは左手にわからない人だと私は思います。」
この部分の意味がよくとれないのですが、
お教えください。
ネコさん、
長くなりそうですね。
他に場所を移すか、別に記事を書くかしてもいいですが・・・
逆に、精神における金持ちということを考えてみてください。
現ナマが1億ほどあって、5000万振り込みました。猪瀬さんじゃないけど、こういう人は沢山いらっしゃるでしょう。
ある人は1億持っていても金持ちではない。ある人は1億持っていて金持ちである。どうちがうのか。どういう違いが存在するのか。
神は、聖堂に行って、自分はこういう施しをしました、こういう断食をしましたとひけらかす人はすでにその報いを受けてしまっていると仰いました。
そういう人は多分それなりの社会的地位があって他の人もそれを認識しており、実際に経済力とそれに伴う人間関係を持っていたでしょう。
恐らく当時の人々も、そういう方を見て「あ、どこそこの旦那さんだ」「あの人にはちょっと気を使わないといけないだろう」と思ったでしょうし、本人もそれを感じたと思うのです。
それが金持ちだと私は思います。そういう人は今も存在する。
精神において金持ちでないということが大事だ。そういう束縛を持ってはいけない。そこで他人から「あの人には気を使わないといけない」と思われるということ、自分がそう思われていると感じることが、報いであると思います。
しかし、実際誰がそうできるというのでしょう。だから「金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しい」ということになると私は思います。
ありがとうございます、。
本当に奥の深い問題ですね。
精神において金持ちでないということが大事、、。
なかなか難しいと思います。
(また別の意味にもとれそうですね。)
なんだか堂々巡りをしそうです。
しかし、やはり福音書は素晴らしいです。
今は、これしか書けません。
失礼しました。
あっ、他に場所を移すか、別に記事を書くか、そうですね、
そのようにしましょう。
鎖、興味深いです。
またコメントします。
失礼しました、
ネコです。
ちょっと取り込んでいて、スマホからコメントしましたら
「匿名」表示になっておりました。スマホからのコメントは初めてなのです。
失礼しました。
スマホも中々ややこしいですね。
以前、書かれていましたが、メリットは何?と思うこのごろです。
ネコさん、こんばんわ。
返事が遅くなってすみません。
本当は福音の内容でこのブログが埋まってしまうのもどうかとも思うのです。
個人的にご連絡をいただく分は、全くかまいません。
本当は何かそういう方面の場を私も用意すべきなのかもしれませんが。