自分としては、幽霊やUFOなんかを見たことがあるわけではない。およそ自分としては、そういういわゆるオカルトチックなものにはあまり縁がないともいえる。
だけど、「幽霊が見えている人はいるのですか、どんなふうに見えるのですか」という風に言われると、過敏に反応してしまう。
じゃ、君は何が見えるのさ。
なんなら見えるの?
これなら見えるというものがあるのか?
そこで「見える」ということには、常に思考が関与している。判断が関与しているのだ。
郵便局が見える。しかし、それが「郵便局」だというのは、なぜわかる?昨日来たときはあったけど、今日行ったら台風で屋根が飛んでいた。壁の色が緑から白に塗り替わっていた。出迎えてくれる職員さんがおじさんからお姉さんになっていた。
違うじゃないか。そこに継続してある「郵便局」は、君が与えている意味であって、君が見ているものじゃない。
あらゆる「現実」とか「常識」とか「普通」とか人が呼んでいるものはたいていの場合そういうものだ。
それが「ある」とか「みえる」とかいうのを「現実」とか「常識」という根拠はなんだ?なぜそういえるのだ?
突き詰めて考えると、人々がそれを「現実」と呼んでいる理由・根拠は
「みんな、そう言っている。」
ということに過ぎない。
みんな同じに鎖に縛られて、自分たちは共通だと思っている。同じように縛られている。これが現実だ。これが常識だ。
だが、本当は自分を自分で縛っているに過ぎない。
その鎖は小さな感情でできている。一旦その感情を見つければ、みんなを縛っていると思っていた鎖は自分だけを縛っていたものだとわかる。