広島の語り部も年老いている。直接の原爆の体験者は少なくなっている。どうやったら、戦争の経験のない人に原爆のことを伝えていけるだろうか・・・と、これはテレビが繰り返しそういうことを訴えかけていた。
多分、それは無理だ。なぜかというと、広島の語り部は戦争が何だったのかということを伝えていないからである。
クセルクセスが大軍を率いてギリシャに攻め込んだ。ヘロドトスはその一連の出来事を「歴史」という本に記録した。その時にヘロドトスはアテナイが焼き滅ぼされ、スパルタ兵が全滅したから「過ちは繰り返しません・・・」と書いただろうか。いいや、彼は根掘り葉掘りペルシャという国がどのように起きたのか、その周辺の国の民族はどのような民族で、ペルシャやギリシャとの間でどのような事件があったのか調べ上げて記録したのである。
平家物語は、直接体験していない琵琶法師によって長く歌い継がれた。彼らは壇ノ浦だけ歌って「平家は哀れだった。二度とこういう争いはしてはいけない。」と歌ったのだろうか?いいや、俊寛僧都が島流しにあったのもすべて物語のうちに含まれているのである。
原爆だけを取り上げて「過ちは繰り返しません」「戦争はいけないことでした」というのは、つまるところ、戦争をした我々日本人が悪かったのだということを訴えかけている。だって、戦争はずっと世界で続いているよ。日本もイラク戦争支持したじゃないか。日本はいかなる理由があろうと、英国や米国が行う戦争に反対すべきではないのか?しかし日本はそんなことをしていない。
核兵器はどうか。核は新疆ウィグル自治区やマーシャル諸島で爆発したじゃないか。それは実験かもしれないが、被害にあった人がいることに変わりはない。過ちは繰り返されているよ。
そこには戦争をした動機というものが欠如している。私の親族も南の島で死んで帰ってきていない。なぜ彼はそんなところに赴かなければならなかったのか。なぜ広島は原爆を経験しなければならなかったのか。その合理的な理由があるのか。
仮に原爆のことを伝えたいなら、もう少し詳しく伝えるべきなのではないか。
アメリカ人の多くは核兵器が爆発することは大したことではないと思っているし、広島の核爆発は正しかったと考えている。
多分世界の人々は、ニューヨークかどこかで核兵器が爆発するときがくると思っているだろうと思う。仮にバグダッドやカラチやカイロで核が爆発したとしても、それほどのインパクトはない。もちろんインパクトはあって大変なことだろうが、それでも世界の人々はせいぜい「第三の広島」と思う程度だろう。どうせアジアやアフリカの国だし、核を落とさなくてもバグダッドで2万人や3万人死んだところで、それはアメリカ人にとって毎度のことだからだ。
歴史って恣意的に構築されたものであると、学校で教えるべきかと思うのですが、
日本の学校では教えないのが問題ですね。
歴史学では歴史は恣意的に構築されたものであるということが
20世紀に共通理解になったのにです。
たとえば
http://cl.rikkyo.ne.jp/cl/2008/daigakuin-e/files/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%89%87%EF%BC%882003%EF%BC%89%E8%A8%80%E8%AA%9E%E8%AB%96%E7%9A%84%E8%BB%A2%E5%9B%9E%E4%BB%A5%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6.pdf
アメリカの学校では構築主義的な歴史教育ってずいぶん前からおこなわれていたようです。
http://repo.flib.u-fukui.ac.jp/dspace/bitstream/10098/8084/1/AA12509441_4(2013)185-209.pdf
結局、日本では既得権益を守ろうと一面的な歴史が語られてきたわけで、
最近の保守思想家はそれを敗戦利得者の既得権益などと呼んでいますね。
灸太郎さん、こんばんわ。
投稿はありがとうございます。だけど長いですね。ゆっくり見ます。
それと歴史学ではそうなのかもしれないけれども、ほとんどの人はそこまで突き詰めて考えないで、大勢に流されると思います。
今の報道を見ていて、広島は歴史を全く教えていないのではないかと思います。
どういったらいいのか。
今の高校1年同級生殺人と同じようなことが起こっている。人はなんとなく他の人を殺したりしないものです。仮にその人が邪悪な人で人を安易に殺すとしても、その殺しがばれて自分が不利益を被るというようなことは悪人ならできる限り避ける。この子は自分が殺すところを誰かに見てほしかった。法律では悪人かもしれないが、それとは別に心理的な理由は存在する。そこに事実があり、感情に沿ったストーリーがあるから人は納得できる。
ちゃんとしたストーリーが存在すべきなのです。そこには動機があります。悲劇に至る過程というものがあります。
広島の場合、それが悲劇だということしか言っていない。なぜその人はその場にいたのか。何をしていたのか。何も言っていないように感じるのです。