また「かぐや姫の物語」の話題です。
最後の月からの迎えが、もろに仏様でした。
これには阿弥陀二十五菩薩来迎図という元ネタがあるそうで、知恩院さんがお持ちになっています。
時代的には阿弥陀信仰が広まったのはかぐや姫の平安時代より後ですから、おかしいと言えばおかしい。
もうひとつは、仏教徒の立場から言えば、「仏様をこんな月からの使者あつかいするなんて、けしからん!」という議論があってもおかしくないと私は思いました。しかし、調べてもそれらしい批判的言動はお寺さんからなされていない。
それどころか、このかぐや姫の物語の主題歌を歌っている方は、なんでも浄土真宗の僧籍を持つ方なのだそうです。
これは、自分は考えていくうちに、複雑な思いに駆られました。
「とり、むし、けもの、草木、花。春夏秋冬連れてこい。」
様々な欲望や穢れに満ちたこの世と対比すべき、完全な世界、死後の世界、極楽浄土、所謂お迎えが来るというそれの象徴として、あの阿弥陀さんが描かれているわけでしょ。そして、浄土真宗や浄土宗のお坊さんや信徒さんからそれについて特に異論が出ないということは、大方日本人は極楽浄土やお迎えについて大体そういう考えを持っているということなのだろう。
もちろん細かい教義的なことは違います。娑婆世界というのは須弥山を中心とした四大陸の世界が10億個集まった三千大千世界で、そのような世界がいくつも超えたはるか向こう、今の言葉でいうのは銀河系のかなたに極楽・西方浄土はあることになると思います。しかし、まあ、そういう細かいことは抜きにして、ざっと「死んでからお迎えが来ていく極楽世界」というものに対して、そういういわば「穢れなき美しい世界」というイメージを持っていて、それが今回のかぐや姫のテーマと大体一致しているとお坊さんたちや日本人の多くが認めているのでしょう。
また、映画や物語としての感動は、それはそれでありますよ。映画を批判するわけじゃない。
だけどさ、それ、おかしくない?
自分は仏教でもキリスト教でも、もっと生々しいもののように思います・・・いやまあ、言われてみればキリスト教にも「病も苦しみも嘆きもなくただ終わりなき命あるところに安んぜしめたまえ」という祈祷がありますよ。
それでも、自分としては今この世界が神の世界、この世界が仏の世界だと思う。神は真実だけど、いや、真実だからこそ、どこか遠くにある苦しみのない世界、それに意味があるのだろうかと思う。結果的にかぐや姫の映画に通じるものがあるわけですが、娑婆でええですやん?
自分はどこかの坊さんが、「いや、これおかしいでしょ。大事なものは目の前にあるし、それがそのまま仏様の世界ですよ」と言ってほしいような気がします。
ネコです、こんばんは、
「かぐや姫の物語」ですね。
私は、この頃、ちょっとくたびれているので支離滅裂なことを書くかもですがお許しください。
私はあのアニメ観ていて、
最後の「月からの迎え」をみて、
ちょっといや、かなり違和感を持ちました。
それまでの箇所で結構、いい感じ!で観ていたのですが、
月からの迎えが仏様ですか!ブッダそのものが月から迎えにやってくる!
別にいけなくはないんだけど、なんだか違和感があってちょっと笑えました。(失礼)
昔からの話として、もっと神秘的な話としてとらえていたもんで、、。天女があらわれるような、、。
じゃああ、ブッダが迎えに来たら神秘的じゃないのか?と問われたら、どう答えたらいいのでしょうね。
ブッダに限られるのはちょっと!
その人の宗教観でとらえるのでしょうか?
私は不信仰ながらキリスト教徒なので、いやあ、ブッダのお迎えは来てほしくないですね。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のアニメがありますが、見られましたか?
原作にも出てきますが、原作は人間ですが、アニメでは、主人公がネコになっているんですよね。
カンパネルラとジョパン二が列車に乗ってどこまでも行く話なんですが、。
同乗者といろいろな話をしながら進んでいって、
サザンクロスという駅で、ほかの人達(ネコ)は降りていくのです。
「ここから天上へ行くから」と言って、、。
でもカンパネルラとジョパン二は降りませんでした。誘われたのですが断ったのです。
そこで動き出した汽車から見たのですが、
「もうありとあらゆる光でちりばめられた十字架が見えて、よろこびの声があがり、ハレルヤの声がひびき
見えない天の川の水を渡ってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちに来るのを
二人は見ました」(原文より)
これは宮沢賢治の世界でしょうか?
私もこのように迎えに来てほしいような、、。
今、受難節、レントの真っ只中です。
ではまた、、。
ネコさん、こんばんわ。
レントですね。宮沢賢治さんのアニメは見ていません。
宮沢賢治さんって、普通仏教的な話を書いておられますような気がします。
自分が仏様で「おかしいな」と思ったのは、こういうことです。
お釈迦様に限って言えば、マガダとコーサラという大国の間の小国の王子として生まれ、毒矢のたとえのように「世界の果てがどこにあるかというような、抽象的なことに頭を悩ませるな。そういうことがわからなくても、生きることも老いることも病気になることも死ぬこともある。その苦しみを取り除くことを私は教えるのだ」と仰いました。
私が受け取っている仏教という宗教は、穢れた地上で生きるからこそ、意味があるものだと思うからです。自分は浄土真宗は好きになれない。そんなどこか遠くのきれいな仏様などいらない。真宗さん以外の仏教は「この世に人間として生まれてくることは難しく、仏縁に出会うことはさらに難しい」と教えます。今人間でこの世にいることは大変なチャンスなんだよ、という。そちらがのほうが真実だろうと思うのです。
私はそういうことで、ネコさんはネコさんで違和感を感じられたと思う。
しかし、一方で多くの人はとくに宗教を勉強するわけでもなく、「死ねば阿弥陀さんのお迎えが来る」というと思っていて、この映画についても「えっ、それおかしいじゃない!」と思わなかったということなのでしょうね。