まず見なければ仕方がない。普通の人はその「見ること」自体がなかなか起こらないことだ。その結果見ればわかると多くの人が思っている。覚りは最終目標。神を知ることが最終目標。それが叶えばすべてうまくいくと思っている。
だが実はもう少し事情はややこしい。
見ることによらない、普通の世界観というものは、たくさんの言葉や記憶や経験や習慣によって支えられている。仮に見たとしても、その大きな構造物は簡単には崩壊しない。
これが真理だったのだ!自分は見たのだ!
そう思ってから、「でも、これはどうなの?」と思うことがいっぱいあるのだ。
宗教が言っている教えは何か遠くにあるもので、普通の人がなかなか知ることができないもの、と多くの人が思っている。そうではないのだ。それはすぐ近くにあって、自分が納得するというだけの話なのだ。「そんなこと、あるわけがない」ということが「ああ、実は別におかしなことではないのだ」と思う、というただそれだけのことだ。
しかし、その納得に結構時間がかかる場合もある。見ても、過去の構造物が隅々にまで行きわたっていて、すぐにそいつをこちら側の世界に引き込んでしまうのだ。
見て、過去の人々が残した骨組みを組み合わせていくうちに「ああ、これでいいのか」というときはきっと来る。きっと来るが、なんと長い時間のかかることだろうか。