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飛べないキキはいらない

自分はテレビを持っていない時に「魔女の宅急便」の単行本を読んだ。そして、その後随分してからジブリアニメの魔女の宅急便を見た。いくつかの場面やセリフは原作を忠実になぞってはいるものの、最後は原作とは大きく違う内容だった。なぜ忠実になぞっているにもかかわらず、違和感を感じるのか?

それで、昨年実写版が出て見ないといけないと思ったのだが、結局行く機会がなくて、やっとレンタルビデオを借りてきてみた。

 

いい点、悪い点いろいろある。映画としての完成度はジブリのほうが高い。仕方がないと思う。予算も撮影環境も違うんだろうと思うし。

だが、小芝風花さんは、アニメのジブリより原作の味が出ていると自分は思う。また、空を飛ぶ爽快感、キキが何かやってくれるという期待感みたいなものもアニメより良かったと思う。これは現場に作者の角野さんも入れ込んで作られたらしいから、作者さんの思い入れもいろいろ入っているのだろう。

でも、この映画でもキキはやっぱり飛べなくなってしまう。

原作では、トンボさんが箒を盗んで飛ぼうとして箒を折ってしまう。他人の失敗でキキは箒を失うのだが、キキ自体が自信を失って飛べなくなるというシーンは自分が読んだ巻にはなかったのだ。ところがジブリ版のアニメでも飛べなくなってしまうし、実写版でも自信を失って自分で落っこちて箒を折ってしまう。原作では自信を失ったキキの姿はないのです。何か困ったことが起こった時、キキ自身も正面から解決する手段は持ち合わせていないのだけれど、飛んであれこれすることで、最終的にコリコの町の人々はハッピーになる。

ところがアニメ版のキキも実写版のキキも、自分の心の変化によって飛べなくなってしまうのだ。

それがあらゆる不自然さの元凶だと思うのだ。いわばストライクの入らないピッチャーでしょ。フォアボールでランナー満塁でピッチャー交代。もう起用されないよ。落ちるかもしれない魔女に何かを頼むわけにはいかないもの。

箒がないから飛べない、これはOKですよ。でも飛べないというのはいけないんじゃないか。
尾野真知子さんはオソノさんを演じたけど、朝ドラではデザイナーの役だった。それで、たとえばそのヒロインが戦争にあったから自信を失って、全然デザインらしいものが描けなくなってしまったというのだと朝ドラにならない。戦争とか家庭のトラブルで思うように作れなくても、本人はひとたび色鉛筆を握れば素晴らしいアイデアがわき出てくるからドラマになるのだ。
それなら、箒がないから飛べないけど、庭掃き用の小さな箒を見つけてふらふら飛ぶというのならOKなんじゃないか。

それでいろいろ考えるうちに、気がついた。

 

要するに、原作のキキはヒーロー・ヒロインなのです。

ポパイとかミッキーマウスとかウルトラマンとか、皆ヒーローだ。ポパイはホウレンソウの缶を開ければ、必ず力がでる。自信を失って力の出ないポパイはいらない。あるいは自信を失ってスペシウム光線の出ないウルトラマンはいらない。昔ウルトラマンの対抗番組でミラーマンというのがあった。鏡に飛び込んでヒーローに変身して怪獣と戦うわけだが、鏡がないと変身できない。悪い奴がミラーマンの周りの鑑を全部曇らせてしまって変身できなくなると、車のミラーみたいな小さな鏡をやっと見つけて変身するけれども、それで怪獣に勝つことができる。ところが鏡があっても自信を失って変身できないという事態が起こってしまうと、もはや彼はミラーマンではなくなってしまう。

もう一つ、ヒーロー・ヒロインの条件は、本当に困っている人は本人ではないということ。ウルトラマンは地球の人が困っているから戦うのだ。ポパイはオリーブがさらわれるからブルーとと戦うのだ。

で、確かに原作のキキは、いろいろ出来事を通して成長しては行くものの、本当に困っているのはコリコの町の町長さんとか、周りの人たちだったと思う。

今回の映画でも、違和感はキキ自身が困っていることにある。キキが飛ぶことによって、たとえば歌手の人が自信を取り戻したとか、動物たちが助けられたということに焦点を当てるべきなのだ。いやいや、実際には動物も助けられ、歌手も自信を取り戻していますけど、どっちかというとキキが助けられる場面で物語が構成されている。そこがおかしいと思う。

 

角野先生、自らお作りになっているというのにおこがましいことだけど、そう思いません?

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