(1), (2)のことを簡単にまとめると、
「信じる」
ということは、多分それ自体はあんまり教義的な前提がどうこうというのはなくて、何か不可思議な力の源になっていることだ、ということである。「教義的な前提がない」というのは本当は語弊がある言い方だとは思う。信じた結果どうだ、というのはある事実に基づいていて、それを表現したものが教義だということもできる。しかし、とにかく、最初の時点で学者さんがするみたいにたくさん本をひっくり返してみないと信じられないというような類のものでもないということ。
とはいえ、普通はなかなかとっつきにくい部分ではあると思う。本当は何が起こっているのか。
「表面的に信じてもダメで、深層心理、潜在意識まで信じなくてはダメなのだ」などと言われることもある。
自分自身も、昔「本当に悟った人は、夢の中でも自由にできる」みたいなことを聞いていたことがある。それから、なんでもロシアの修道士は夢の中でも昼間と同じように祈祷できるように訓練したとか何とか、そういうことも聞いた。
信じる、って、教えられたり強制されたり訓練してできるようになるものではないと思いますが、でも信じるって大事ですよね…
あめさん、こんにちわ。
そう、強制されてできるものではなく大事なことなのだが、なぜ大事なのか、書こうと思ったのですが・・・
なかなか書けないですね。これだ、と思ったから書こうと思ったのだが、なかなか表現できないのです。
ネコです。
いつも遅くからノコノコと失礼します。
「信じる」
『ということは、多分それ自体は、、、、何か不可思議な力の源になっていることだ、』
本当にそのように思います。
私が、聖書から読み解いて思いますことには、
「信じる」とは、信じることを許されて、信じて行けるようにされることだと思います。
主イエスは言われます。疑い迷う弟子、トマスに
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20.24)と
見ないのに信じる人は幸いである。
しかし、
ここで、イエスの言われたことは、
では何一つ疑う事無く、信じることが正しい、ということではないと思います。
それであれば単なる妄信でしかない、あるいは洗脳、などにしか過ぎない。
あの話題作「沈黙」の作者、遠藤周作氏が亡くなられて、最早、二十年近い日が過ぎました。
遠藤氏は、あるエッセイで、
「自分は主イエスの復活を信じきれない、でも死ぬまでにはそれをキリスト者として信じて行けるようになりたい。」
あれから遠藤氏は、それを信じることを許されて死んで行かれたのだろうか。いつも思います。
やはり、信じることを許されて、初めて信じて行けるのだと思います。
「八方塞がりでも、天井は空いている」
本当だろうか、天井とはどこにあるんだろう?どこが空いているんだろう?
その疑いの中に、求める中に、ある日、「空いている天井らしきもの」を見ることを許される。
信じれるようになるとは、そういうことではないでしょうか?
聖書なかで、(ルカ伝24)
弟子たちの二人が、エマオへの道で、主イエスに出会う箇所があります。
二人の弟子は、夕闇の中、一緒に歩いて行かれるイエスを主イエスだと気づかなかった。
その夜、共に泊まられ食事の席で、目が開かれ、主イエスであることを信じることができるようになった。
「信じる」ことを許されるとは、そういうことのような気がする。
「なにか不可思議な力の源」とはそういうことのような気がする。
強制されてできるものでも訓練されてできるものでもない。努力は必要な気がする。
そして、偉大なものから許されて、初めてできるものであるような、そんな気がします。
信じれるようになりたい。
信じることを許される・・なるほど!
遠藤周作さんの言葉が今すごくストンと収まりました。
「自分は主イエスの復活を信じきれない、でも死ぬまでにはそれをキリスト者として信じて行けるようになりたい。」
そっか。信じるべきことを信じ切るには許しが必要なのか。そう思うと腑に落ちるというか。
だって信じたいけど「信じよう」って思っても信じ切れないこと、ありますもんね。
そっか、そっか~!!ネコさんありがとうございます。
あめ さん
ありがとうございます。
占星術にはお手上げの私ですが、
お読み頂きまして、本当に感謝です。
ネコ ホームズより
ネコ・ホームズさん、あめさん、こんにちわ。
ネコさんの意見に特に反対ということではないが、この問題はもう少し自分なりに頑張って表現してみます。
どういうのか、自分に対してニヒルな、懐疑的な思いというのを許してはいけないと最近とみに思うのです。それはどの思想に対してとか、そういうのじゃなくて、もっと単純な、こころのあり方として、疑いをさしはさんじゃダメだし、そのことが私たちを未知の事実や現象を開示するということ。
simpledirect さま
そうですか、
「自分に対してニヒルな懐疑的な思いというのを許してはいけない」確かにそうは思います。
このことは、私が上手く捉えきれてないとは思うのですが、。
「信じる」ということは、
ひとつ間違えれば、自分に対しての「甘え」や
「甘やかし」にしかならないこともあると思います。
「信じて」いくということは、やはり
大いなるものの力において、なさせられる事と思います。「夢によって、ある日、」というのも、そういう事ではないかと思います。
ネコさん、ホームズで来ましたね。コナンと呼びかけようかと一瞬悩んだのですが(笑)
私は自分に対し物事をニヒルに受け止めさせているし尚かつ何に対しても懐疑的だなぁ。
物事を、一瞬は受け止められるけど、後から後から疑いの心が湧いてきて、その心に支配されてしまいます。凡夫だなあ、と思います。ここを乗り越えるには何らかの修行が必要なんでしょうね。
でもそれが出来たら人間じゃないような気もして、ジタバタしたかったりもします。
なので、信じる、ってことは大事だけれど、他人にも自分にでも強制されて出来る事ではないんだなぁ、と思ったりするわけです。
で、ある時信じる事を許される、っていうのが、すごく解りやすいな、と。
続き楽しみにしてます。夢の記事が続きなのですかね?
あめ さん
ありがとうございます。
ホームズは、私が読書好きになったきっかけを作った大切な憧れの探偵です。コナンも素敵ですが。
それはさておき、
ニヒルに受け止める、懐疑的、それは、人間が生きているいじょう、当たり前のことだと思います。
イエスは、仰いました。
「幼子のようにならなければ、天国に入ることは出来ない」本当にそうだと思います。
しかし、なかなか人間が生きて行く上で、全てを
「信じて」行くということは、難しい事と思います。疑ってばかりの自分、聖書においても、
あれはただ単なる
「たとえ話」さ、、と、。
いつまでたっても変えられない自分。
そこで、「信じる」ことを許されて行くしかない、
「復活を信じる」とはそういうことかもしれない。