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六祖慧能の風幡 (4)

風は吹き、幡はひらめき、るちあさんは走る。止まっているお釈迦様に走っている大盗賊のアングリマーラは追いつくことができない。

さて、今一度、この「動き」「変化」と「私」ということを考えてみる。

行為というものは、通常その目的になるものがある。あることをしようとし、それを行う自分があり、その目的と現在の自分との間には距離、空間がある。私はたとえばリンゴがほしい。リンゴは目的物である。そして、それは行為となる。取りに行くのかもしれない。スーパーに買いに行くのかもしれない。皮をむこうとするのかもしれない。

そこに時間が生じる。

しかし、本当にあるものは常に変化している。今自分がほしいと思った実体がそのままそこにあるわけではない。例えば熟すかもしれない。たちまち蟻がついて黒くて茶色な腐ったゴミに変化するかもしれない。ターミネーターが現れてぐしゃっと握りつぶしてしまって汁に変化するかもしれない。とにかく全く一緒ではない。

しかし、「行為」をするにあたっては、固定的な目的物と固定的な主体が仮定されている。りんごを手に入れるまで、「りんご」は変化してはいけない。そしてりんごを欲する私も存在し続けなければならない。そういう前提条件があって、初めて、行為が成立する。そしてこの行為・・・心的な行為である思考も含めて・・・のことを東洋人は輪廻と呼んだ。ずっと終わらないの。繰り返し繰り返し執着し続けるのです。

だけど、ほんとうはその「りんご」というのはおかしくないか?言葉で「りんご」と名付ける名前以外に実体は存在しないのではないか。目の前にあるあるところのものであるものは、今あるだけで、今あるものは、全く変化することはなく、そして常に変化しているのです。その輪廻、行為が時間や空間を生み出しているのであって、もし行為しなければ、つまりあなたがいなければ、りんごは存在しないのではないか?

 

我々は何度懇切丁寧に説明されても、世界がもともと生きているということがわからない。それは我々がとても低いレベルの意識しか持っていないからである。

りんごが生じるのは、「これがりんごだ」と判断する判断によっている。もし、思考しなければ、判断しなければ、死ぬことが何も恐ろしくないなら、自由であれば、りんごなどどこにもなかったということに気が付くだろう。その日、はじめてりんごはりんごになり、山は山になり、花は花になるだろう。

私たちはだから違う図を書かないといけない。

本当は、私たちが「これはりんごだ」と判断し、それを繰り返し選び取ることによって、自分で世界を紡ぎだしていて、その意識の中で生きているのです。

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