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六祖慧能の風幡 (3)

さて、今日は視覚のパラパラ漫画説について検討してみましょう。これはこれで、面白い考えと言えると思います。

ちょっと走っている場面ということで、るちあさんに登場していただきます。実際映画とか漫画とかだと、上記のような連続した絵を早く動かすことによって、あたかもこの人物が動いているように見える。

実際スターウォーズの第2作目で雪原を未知の生物が走っているシーンは、まだコンピュータグラフィックスがなくて、人形を少しずつ動かしてつなげる、パラパラ漫画方式で作られたらしい。この時には苦労があったそうで、上記のようにしっかりとした絵ばかりだとカクカク絵が動くように見えてしまう。そこで、わざと左右にぶれた絵をパラパラ動かすと、スピード感を持って動いているように見える、というようなことがされたらしい。実際Youtubeの漫画を見ていても、2つの絵が半透明で重なったような絵が出てくることがある。スムーズに見させるためには重要なことですよね。

そして現実の視覚もそうではないか、ということですよね。ここには何らかの真実もあるかもしれない。科学的な側面では、いろいろ検討すべき課題もあるのかもしれない。

が、少なくとも六祖が言いたかったのはそこではない。

 

上記の絵には観察者が欠けている。では観察者を書き入れてみよう。

ふつう我々は間違いなく上記のように感じていると思う。たとえ知的にはよく仏教などを理解していて「これは違うな」と思っている人でも、実際の人生ではこう考えていて、その枠組みから逃れられないでいると思う。

この観察者は、シーン1からシーン5までに対して中立の立場にいる、と仮定されている。中立ということは、例えばシーン2とシーン3を見比べたりできる立場にいるということである・・・そんなことがあるだろうか。

例えば、ですよ。シーン2は9時32分13秒の時のシーンだった。シーン3は9時32分14秒のシーンだった。観察者はその2つの時に対して中立でいる。ある意味その観察者・・・私・・・だけは時間を超越している。さっきと今を見比べることができる。さっき・・・「過去」・・・が存在している。そんなことがあるだろうか。この「私」は変ではないか。つまり釈迦牟尼仏がおっしゃるところの

「アートマン(我)ならざるものをアートマン(我)とみなし・・・」

のアートマン、我、私、自分というのは、まさにこの「過去・未来・時間という実体が存在していて、全くそれらから独立して客観視できる観察者・行為者」のことではないか?

本当は今の観察者は今しかいなくて、「さっき」というのは何らかの痕跡に過ぎないのではないか。シーン2は存在しておらず、シーン4も存在していない。

それがパラパラ漫画だとすると、スターウォーズのぶれた画像みたいな「中間」が存在しないといけないことになる。9時1分と9時2分の間は空白で世界には何もありません・・・・まさか。

 

今あるものはここにある。心も動いていないし、世界も動いていない。

でもるちあさんは走っているの。

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