先日書いたとおり、これほどまでに占星術の結果が当たる。過去の占断は当たっていた。これからの占断も当たるだろう。では、知らないほうがいいのではないか?
私自身は知るべきだと考えていて、知ることに意味があると考えている。そうでなければ、占星術などやりはしない。
そうはいうものの、知らないほうがいいのではないか、という意見には一理ある。
知らないほうが楽なこともある。私自身、若いころ自分は何でも出来ると思っていた。そう思っていればこそ、なんにでも一生懸命に取り組めたのかもしれない。
キリスト教は占星術を禁止した。私は矛盾しないだろうと考える。だが、今から絶対キリストを信じて救われると思っている人に、「あんたは3年後こういう星回りだから、愛情の危機がある。」なんて、邪魔かもしれない。
知る、ということは、いくつかのレベルがある。
誰かからそれを聞いて信じることを普通は知るという。たとえば「えのきを食べると痩せるよ」と聞いてえのきを食べるというようなことである。普通の知るということは、こういうことの巨大な蓄積である。だが、この場合直接的に知っているわけではない。ある意味推論である。
しかし、もしえのきの成分だとか、熱したときの化学変化、体内での反応のような医学的な知識があればあるほど、その知に厚みが出てくる。
さらに直接的に何の疑いもなく知るということが存在している。たとえば神を知ること、命を知ることに段階はない。分かれば直接分かるのである。沈黙の知の状態、直接的に見るということ。
また、知ることは、一般的には一方通行である。
一度知ってしまえば知らなかったことにはできないのだ。たとえば一度私がホロスコープを作って、過去の年表で出来事を言い当てた人が、「simple and directは何も当てることが出来なかった」ということはできない。
で、それはゆっくりその人の中で消化すればいいと思う。
想像して欲しい。もっと極端な状況もあり得る。
たとえばあなたが神に選ばれて霊能者になってしまって、ほかの人のいろいろなことが分かる状況になったとする。「あ、あいつ婆さんがこの間死んだな」「あ、あの野郎おととい万引きしたな」などということが全部分かったとして御覧なさい。日常生活を送るのにすごく困るでしょ。
もっと単純なことでもいい。あなたの家族は明日遠足を予定している。晴れて欲しい。だが、あなたは気象について特別な知識を持っていて、明日雨が降って遠足にいけないことを知っている。だが、家族はあなたを理解できない。どうしたらいい?
あるいはあなたは科学者である。原発で事故が起こった。学者であるあなたは次に何が起こるか知っている。ところがテレビで出てくるやつは何も正しいことを言わない。どうしたらいい?
知る、ということは結構面倒くさい大変なことなんだと思う。その荷物を背負ってもいいかどうかは、どこかの時点で決めなければならない。その決定的な瞬間というものは各個人に必ず訪れる。
知ることに意味がある
知るということは結構面倒くさい大変なこと
おっしゃる通りだと思います。
知るということは、常に重荷を背負う責任がつきまとうのでしょうね。
週の終わりにとてもいい収穫になりました。ありがとうございました。
もみこさん、こんにちわ。
ファン・ラモン・ヒメネスの詩に「神の犬」というのがあります。
ここにある!みんな来て!
掘ってくれ、掘ってくれ!
私の手は血だらけだ、
もうこれ以上は掘れない!
ここにある!
湿った大地の中の
永遠の匂い!
ここにある!
不死の太陽への
私の長い遠吠えを聞いてくれ!
ここにある!みんな来て!
掘ってくれ、掘ってくれ!
通常は知ることの出来ない、だけど実は目の前にある、真実を知った人の気持ちを表している詩だと思います。