この辺で「さばる」という表現がある。これは「くっつく」とか「つかまる」というような意味だ。たとえば「海苔が鍋にさばっとる」という。ペタッとくっついた状態だ。あるいは、「棒にさばって歩く」という。棒につかまって歩くという意味だ。「そげん、さばあだねが」というと、子供がじゃれ付いたりするときに、そんなに触るんじゃない、みたいなことを言う表現だ。
今日、母と買い物にいった。母ももうちょっと年なので、店内を歩くときはカートをつかんで押しながら歩くのが楽だ。というわけで、私が「おかあさんは、さばってあるかな、いけんだね」(お母さんはつかまって歩かないとダメだよね)みたいなことを言ったらしい。
家に帰って、ご飯を食べているときに母が思い出し笑いで吹き出して、私が周りの人も使わないような出雲弁を使うという。その「さばって歩く」などというのも、今時人前で使う人はいないというのだ。
自分は、若いころ、自分の地元がいいとはあまり思わなかった。あれがいい、これがいいと言われても、外にでなきゃわかんないじゃないかと思っていた。
そして関西に出てバイトをしたり、就職後も関西で営業した。それも、ルートセールスで決まったところに行くのではなく、ある意味全く新規のお客さんに飛び込むのが当たり前の生活を送った。もともと口下手な人間で、ろくに社会生活も送っていない人間が突然京都で飛び込みで営業をする。それは、つまり「人前で話すの京言葉だ」と体に教え込むようなものだった。
だから、今でも初めて会う人には地域の人でも京風のアクセントで話す。ビジネスでは「どないしたはりますか」みたいなことを言ってしまう。
一方で、地元に帰ってかなりの年月が過ぎた。父が亡くなった。父は典型的な出雲弁の人間だった。彼が話しているのを外部の人が聞いても、何を言っているのか全く分からない。その父がなくなって、母の話し相手がいなくなったときに、自然に自分は父の言い回しを使うようになった。
さらに自分は外国語を勉強している。英語は、うまくはないかもしれないが、海外へは仕事で何回も行っているし、話すのに特段の抵抗はない。若い時に五か国語ぐらい話せる人のことを聞いて、それがあるべき姿だと思っていたので、今ギリシャ語が話せてロシア語を勉強していても、それで十分だとも思わない。
外国で生活された方ならわかるだろうが、ある言語環境では、次いうべき単語や表現を、頭が常に探すようになる。
こういう状況で、普通にこの辺でずっと暮らしてきた人より、私はある意味ピュアな出雲弁を話すようになっているのかもしれない。ここは関西弁ではない、出雲弁で話すべき場所だ、と思うと、頭が出雲弁の表現を探しているのだと思う。
なるほど。語学に適性があるんでしょうねぇ。
私は、県外の人が絶対にわからない
中央区、江南区、秋葉区の方言を微妙に使いこなします(笑)
父の出身、母の出身、自分の育った場所、ですね。
外国語、話せたらいいなあ、と切に思います。せめて英語くらいするするわかると、外国へも気軽にいけるのにな~。
まあ、そうしたいならそう努力せよ、ということではありますが。
今年も楽しいブロク゛をありがとうございました。
あめさん、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
へえ、すごいじゃないですか。
同じエリアでも微妙に違うというのは思います。出雲弁も奥出雲のものと平田の当たりのものと安来の辺りのものと違いますし。