「悟り」みたいな、究極の体験、究極の目標みたいなものがある。これが段階的なものなのか、一瞬で起こるものなのか、それが最終的な目標なのか、そこからがスタートなのか、人によって説明が全く異なる。
恐らく自分で体験した人も、それで迷うことになる。その時点では彼は何もかも知っている。にも拘らず、彼は思ったような結論に達していない。
それを人に伝える場合も、苦労がある。ある人はそれは体験しなければわからないのだという。にも拘らずそこには理屈があって、理路整然と説明できる部分があると言えばある。だからと言って説明に関わり始めると肝心のそのものはするっと逃げて行ってしまう。一方体験を主張する人は、どうしてもその優位性みたいなものをめぐって争うことになってしまう。「お前はわかっていないのだ!」みたいなことになる。
(一応ここでは便宜的に「悟り」という言葉を使う。争いの種になりそうな、ややこしい言葉だが、あまり深く突っ込まずに便宜的に使っていると認識してほしい。)
さて、夢についてである。
夢の中でものすごく大事なことが起こっていても、起きると残念なほど全く思い出すことができなかったりする。
だからといって、その大事なことは消え去ってしまうわけではなく、次に夢を見た時にその前提は生きていて、話がその続きだったり、当然そこでそういうことがあったものとして話が続く。これは人によって差異があるだろう。誰もがそうだというわけではない。それはその人の意志のあり方、意識のあり方によって変わってくるはずだ。だが自分はそれを経験している。
それが夢の中だけで終わればいいが、日常生活の中でそうした前提が反映されることすらある。
起きているときに経験したことがないことであるにもかかわらず、夢で一度経験したことだと「そういうことがあった」という前提で意識が働くというようなことはある。
悟りは、夢とは別の現象、別の事実と言っていいと思う。しかし、起こっていることの本質は同じだと言っていいのではないか。夢の場合に経験していることと、同じ説明がこういう悟りだとか神秘的な体験というものについて当てはめられることに気が付いた。
悟りは、あるエネルギーによって支えられる意識の状態である。その意識状態では通常の意識とは別の理解が可能になる。その状態ではその状態だけの現実というものがある。
そこで理解されるべきことがら、そこで体験されるべき事柄というものがある。人がそれを言葉にするのに成功するとそれは「教え」になる。
しかし、その意識状態が失われると、その教えの現実性も失われてしまう。あたかも夢から覚めた人が、「さっきまで、すごく大事な夢を見ていたのに・・・なんだったのか、全く思い出せない」というのと同じ状態になってしまうわけだ。その意識には、そこに至る道がないというわけではないが、ある意味意識の飛び地になっていて、通常の現実からはそこが現実であるとはとても思えない。意識の桃源郷だ。そこではそこの現実がある。
通常の意識に戻ったときに、言葉だけが残る・・・本当は、その小径を大事にしておかなければならない、が・・・言葉はある意味むなしい。だが、彼の中でその言葉はとても重要な言葉として残る。多くの人はその言葉を偶像にしてしまう。
人々が「悟り」とか「究極のなんちゃら」という場合、それは教えなのか。段階的なものなのか。意識なのか。達成なのか。
そして、最後には「釈迦以外に仏はいない」「誰でも皆元々仏である」全く正反対のことを主張し始めてお互いに争いあってしまう。
実はそれは現実的で誰でもそこにあるものなのに、その説明を手に入れることができなくなってしまう。しかし、夢のアナロジーを使えば、ある程度その現象を現実的なものとして説明できると思うのです。
人生の目的として、その「教え」を聞くことが大事なのか。あるいは「教え」といっても、そこでわかることそのものではなく、その飛び地に到る方法を教えることが大事なのか。ひたすら、その状態を目的にすべきなのか。その状態を支えるエネルギーを蓄えることを目的にすべきなのか。
そこが争いの種なのだ。福音書は、タラントを貯めろ、灯をつけるための油を貯めろ、という言い方をした。人に求められているのは「これが正しいのだ」ということではなく、とにかく毎日主を信頼しろ、というような別種の心の在り方なのだと思う。人生の目標にすべきことは、その灯をともすべく、直ちに結果を求めるわけでもなく、毎日その油を貯めなさいということ。その飛び地に行けるための、燃料を確保すること。
これ、さっさと短い文章にしてしまうのは難しいので、いつか書き直さないといけないとは思う。時間のあるときに、もう少しまとめよう。