先日、何か夜に占いの番組があって、そこでタレントの姉妹に占い師がアドバイスをしていた。結婚問題に話が及んで、占い師が「いついつごろに出会った人が運命の人だったけれど、あなたがオクテで全くアプローチしなかったのだ」みたいなことを言うと、その妹の方が「あれが運命の人だったか」と、思い当たる節があるようだった。
恐らく、この占い師さんは非凡な実力の持ち主なのだろう。その人のことをこうも的確に言い当てているのだから。そもそもテレビでレギュラーが張れる占い師だ、出来るに決まってるか。
しかし、一方でちょっと引っかかる気もした。
その人が運命の人だったとしても、その人とは結局結婚しなかったんだろ?
結局結婚しなかった人を取り上げて「実はあいつが運命の人だった」ということができるのか?
それ、意味あんの?
自分も、今、ちょっとそういうことで、思い当たることがないでもないんですよ。恥ずかしいですけど。
自分が年運の出し方を知って、いろんな人を見て、なるほどこれは当たってるかもな、と一定の確信が得られるようになったのは、そんなに昔ではありません。それで、他人さんを見るときも、「これはどうだろうか」と思うときには、自分の年表を引っ張り出してきて、その配置と起こったことを検討し直したりはするんです。
それで、私が結婚するのに適した時期みたいなのを割り出すと、大体本当に結婚した時期ではなくて、別の時期が当たる。そしてそのときに、自分には確かに微妙な関係の相手がいました。
熱愛、という感じでもないんだよなあ。だけど、そのときは、相手もこいつ(私のこと)なら旦那で行けるのではないか、みたいな感じで真剣にアプローチしてきたし、今考えると、なんというか、現実的な選択としてありだったかもしれない。つまり、収入、立場、年齢、親しさや経歴とか色々なことを考えた時に、ありかもなあ、と思う。今考えると、ですよ。
だけど、要するに自分はその選択はしなかった。そのときにはその時の理由があった。それを後悔したこともない。彼女は自分の道を歩んで自分の選択した道で成功していることを知っている。
そうなのかもな、と思うのは要するに占星術で暦を計算した結果だ。
で、占星術師、占い師が、それを選択しなかった相手に「あいつが良かった」という必要があるか?
いやいや、このテレビに出ている占い師もわざと言っているわけではないのかもしれない。私と同じようにその人の年運みたいなものを見て、「この時期いい人が現れそう」というのはわかったのだろう。話の成り行き上、「あれがいい人だった」と言っちゃったのかもしれない。それを言えないということになると、占い師は何もいうことができなくなるじゃないか。
なので、占星術師がこんなことを言うのもなんだが、占星術師の言うことなど信じなさるな。
確かに、その人と結婚していればあなたは幸せだったかもしれない。だけど、今あなたが不幸だったとしても、それは神があなたにお与えになった必要な何かだからこそ、あなたはそれを選んだ。
「あの人が」運命の人だった、というからまずいのであって「あの人も」運命のうちのひとりだった、ならオッケーかと。
運命にもランクもありそうだし、運命の選択肢もたくさんあるだろうし。チャンスも一生のうちに何度でもありそう。
今、選択によるパラレルワールドとか、選択しなおして別な空間へ移動する、とかあちこちで語られてますよね。
なんだか「なるほどな」と思ったりします。
あめさん、こんにちわ。
正直なところ、自分はわからないです。
他の選択肢を選んでみた、というのが、あり得ないことですから。
何度か結婚するというのは、それはそれであるでしょうけど、ある一瞬の選択でいえば、その選択に賭けるほかない。
そして、そのときはできるだけやさしく、相手のためにするほかはないわけですよ。