強い力の発現。それは命令という形を取る。
それはあらゆる未知への扉である。内面の沈黙を得る。夢の中で何かをする。それは強い力の発現が必要である。
キリストはたとえ話や教えを語っている以外は、ほとんど命令している。床を取り上げて歩け!風には止めと命令し、イチジクには実をつけるなと命令する。
しかし、自分はあまり命令というようなことをしたことがない。自分が誰かより偉いというようなことを自分に認めなかった。例え年下の人であっても、彼が先々総理大臣にならないと誰が言える?立場上の違いはあっても「これをせよ」というようなことはなかった。
待てよ。小さい時はあった。小学校や中学校で体育館に全校生徒が集まっているときに「気を付け!」というと、そう、私の声は大きかった、隅々の生徒さんまでがビクッとなって静まり返った。あれだ。そうだ。ああいう風に・・・祈ればいいのだ。ほんまか?
主の祈りは、ギリシャ語ではほぼ命令形で書かれている。ギリシャ語の命令形は、二人称のほかに三人称の命令形がある。
日本や英語や、大抵の言語において、命令するとき「走れ!」というと、「(お前が)走れ」「(あなた方が)走れ」という風に、二人称、言葉をかけている相手が主語であるという前提がある。
しかし、ギリシャ語には「歩兵は走れ。弓隊は射よ。」みたいな、「あなた」ではない、第三者が主語であるような命令形が存在する。
日本語の正教会の訳では「願わくは爾の名は聖とせられ」となっている、日本聖書協会の訳では「御名があがめられますように」となっている文章は
ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου (アギアスシート・ト・オノマ・スゥ あなたの名前は聖とされよ)
という「あなたの名前」を主語に持つ命令形である。
訳文を命令形にすべきなのではないか。それは唱えるという目的、祈るという目的からだ。
カトリックさんでもそうだろうが、正教でも公の祈祷の前には聖霊(聖神)を呼び求める祈りがまずある。その中に、日本語では「来たりて我らのうちにおり我らをもろもろの穢れより潔くせよ」という文章がある。なるほどこれも命令形ではある。
元の文章は
ἐλθὲ καὶ σκήνωσον ἐν ἡμῖν, (エルセ・ケ・スキーノーソン・エン・イミン)
καὶ καθάρισον ἡμᾶς ἀπὸ πάσης κηλῖδος(ケ・カサリソン・イマス・アポ・パーシス・キリーゾス)
という文章なのだけれど、ここではἐλθὲも命令形、σκήνωσονも命令形、καθάρισονも命令形である。つまり「来たれ!而して我らのうちにおれ!而して我等をもろもろの穢れより潔くせよ!」とそれぞれに命令していることになる。
何でこの例を持ち出したのかというと、自分が修道院に行ったときに、修道司祭さんが「エルセ!」とまず命令して、「ケ・スキーノーソン・・・」と続けていたからである。かなり強く「来い!」と言っていたわけで、日本語の祈祷ではずらずらと文章を読んでいるのとは、随分感じが違うと思ったのだ。
でも要するにこれだよ。訴えかけるためにはかなり強く、何よりも自分自身に命令し、力を発現しなければならないんだ。
今後ですから、訳文をお考えになる人は、そのことを考えて訳文を作ってほしいと思います。