通常我々は、そこにモノがあり、目がそれを像として結び、その網膜に映った像を視神経が脳に伝え、脳がそれを解析、あるいは再構成した結果として、そこにモノが見えると考える。
しかし、これには本当は嘘がある。なぜなら、最終的に脳が見たモノが、まさにそこにあるモノだからだ。そこにモノが存在しているということは本当は言えない。それは推論に過ぎないのだ。
自分はいままで人にそのように説明し、さらにそう説明することによって自分自身でもそれを自分に刷り込んでいたのだろうと思う。
しかし、仮にそうだとしても、目が見ているのだ、という前提はそのままになっている。結局は目が見ている。目が悪くなると見えるものもぼんやりする。
本当にそうか。見えるということは目に依存するのか。依存はするかもしれないが、100%依存するのか。見えるということは目がしていることなのか。
少なくともここには論理的に穴がある。目が見ているとは言えない。それもそこにモノがあって最終的に脳が認識しているというのと同じで反省的な理解に過ぎない。見えていることが目に依存する必要はない。
仮に「そこにモノがあって光の反射で網膜に像を結んでそれが見える」ということが否定されたからと言って、目が映し出しているものと我々が見ているものが同じだということは言えない。
もちろん、たとえば目には視神経が集まる「盲点」と呼ばれる点があり、そこの部分には像が結ばれないことは科学は知っている。にもかかわらず、我々はそこに何かがあるように思っている。そういう意味で見ているものと目が映し出すものが違うということは言えるには言える。
だが、自分が言いたいのはそういうことではないんだ。
つまり、目が映し出すものと我々が見るということは、本質的に違うということ。見るというのは網膜に像が映し出されるということとは、何か違うことだということ。
これがあって、初めて説明できることがらがいくつかある。
例えば夢。夢は見ているが目に依存していない。何かを思っているとき、我々は実はあらゆるものを見る。少なくとも見る可能性がある。思い浮かぶというのだけれど、まるで目を使ってみているように見える。
お化け。お化けが見える人は、普通の人であるかのようにお化けが椅子に座っているのが見える。他の人には見えない。
バイロケーション、つまり二カ所に存在すること。そういう事例がある。私はここでこの光景を見ており、同時にここ(別の場所)で別の光景を見る。そのときに目という足かせがあってはこのことが説明できない。
今日、ふと思いついたんです。書き出してみると、今更こんなことを書かなくたっていいような、わかったようなことのような気もする。
だけど、いつも自分はそこに目があるべきだというのが、思考のブレーキになっていたと思う。違うねん。見ることは実は目には関係ない、「目が映し出す=見る」ではないということ。見るということは、本質的には何か違ったことなのだ。
ちょうど今カラーセラピーの講座を受けていて、色とは目ではなく脳が見ている、といえる、と言うあたりを学んでいます。
モノともかく色は完全にみたまんまがそのままではないですものね、完全に。
ってことはモノもそうかもしれない。
奈良の中2の女の子が行方不明・公開捜査と聞きここに来てみました。無事に見つかるといいのですが・・。
あめさん、こんにちわ。
遅くなりましたが記事にしました。