「エメリヤンと空太鼓」は知っている人は知っている、トルストイの童話の一つである。自分はロシア語を勉強するときに、何か名作を覚えたらいいと思っていろいろあさったらロシア語で朗読しているものが手に入ったので、車に乗るときに、他のものと一緒にUSBにいれて、再生するようにしている。だんだん単語がわかるようになってくる。ツァーリは王様。サボールは大聖堂。ニズナーイ・チェボがどことも知らぬところ。が、日本語の話は大体知っているのです。
要約するとこんな話です。
エメリヤンはたいそうきれいな奥さんをもらったが、たまたまそれが王様(ツァー)の目に留まった。何とかこの奥さんを手に入れようとしたツァーはエメリヤンに無理難題を吹っかけて殺して妻を得ようとたくらんだ。ところがエメリヤンは2人前の仕事をあてがっても七人分の仕事をあてがってもその日のうちにこなして口笛を吹きながら帰っていく。そこでツァーはエメリヤンに1日で大聖堂を建てるように言う。もうダメだとエメリヤンはいうのだが、奥さんは心配するなと言い、翌日出かけてみると大聖堂はほとんど出来上がっていて、少しの釘を打てばいいだけだった。ツァーは運河を掘れというのだけれど、これも一日でできてしまった。
王様は頭を抱え家来たちと話し込んだ。すると家来の一人が「どこともわからぬ所へ行き何とも知らぬものを持ってこい」と言えばいいと王様に吹き込んだ。もしエメリヤンがどこかへ行っても、そこは違うと言えるし、何かを持ってきてもそれは求めるものではないといえるというわけだ。
さすがに今度は奥さんも城に出向かなければならなかった。エメリヤンは奥さんに言われて町はずれの老婆のところに行って教えを乞うと、老婆は「ようやく私の涙が乾くときが来た」と言ってエメリヤンに方法を教えた。この道をまっすぐ行って、父母よりもいうことを聞くものがあったら、それがエメリヤンの求めるものだという。そして、それを王様のところへ持っていけば多分王様は「それは違う」というだろう。そしたら、お前はそれを木っ端みじんに打ち砕いて川に捨てなければならない。
エメリヤンは海辺の町まで行き一晩の宿を借りた。そこではぐうたら息子が親が起きろと言っても一向に起きないのを目にした。ところが何かがけたたましい音を立てたかと思うと、先ほど起きなかったぐうたら息子が飛び起きて外に出て行った。父母よりもいうことを聞くものとは何だ?それが太鼓であると知ると、エメリヤンは苦労してその太鼓を手に入れお城に飛びかえった。
王様は果たしてそれを見ると「それは私の言ったものと違う」と言った。エメリヤンは「違うなら捨てるまでのことです。」といって太鼓をたたいた。すると王に使える兵士たちが立ち止まり、彼の太鼓について行進を始めた。彼が川に行くまで兵士たちは彼のあとをついていき、彼が太鼓を打ち壊して川に捨てると、兵士たちは自分たちの故郷に帰っていった。エメリヤンと奥さんも幸せに暮らした。
だいぶ端折ったけれど、こんな話です。
でも、正直に白状すると、実はよくわからないところのある話だった。その、最後に太鼓をたたくと、なぜツァーに従っていた兵隊が立ち止まったのか。なぜ彼らは太鼓のあとについていったのか。
でも、今ウクライナ問題が出てきて、ちょっとわかったような気がした。
自分たちは大体兵隊みたいな立場に立っている。つまり、自分のしていることがなぜ正しいか、そうしなければならないのかわからないけれど、誰から言われるわけでもない、それが正しいと信じてそれを行っている。
ところが、太鼓が鳴るときのように、ハッと我に返る瞬間がある。あ!これ、違ってた・・・これが正しいんだ。そして、それまでの間違った行為がまるで何事もなかったかのように、違う人生を歩き出す。
多分。多分。エメリヤンと太鼓はそれを劇的な方法で示したわけだ。