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アセンション

アセンションというのが多くの人の間で語られている。 なんでもWikipediaによると、地球の次元上昇だという。 11000年に一度フォトンベルトなるものに地球が入ると人間の遺伝子が変わって進化する。それが今年の12月23日からで、2000年ほど続くのだという。

 

これとは別に、西洋人にとってアセンションというのは、いわゆる主の昇天として知られている出来事である。これは使徒行伝の中に昇天したと書かれているわけだが、一方主ご自身の言葉として福音書の中では、 「モーセが蛇を上げたように人の子は上げられなければならない」 と書かれている。 いまアセンションといっている人も、フォトンベルト云々が仮に正しいとしても その概念自体は多分キリスト教殻とって来ているのは間違いないと思う。

 

福音書という書物は、起こっている歴史的な出来事と、実際にわたしやあなたに起こるべき出来事を重ねて表現するということを頻繁にしている。 実際に起こること、というのだが、誰でもすぐに分かるというようなことではなく、具体的に経験した人だけが「ああ、このことを言っているのだな」と分かるようなことである。 それは自分の状態が変化しないとわからないような知識を誤解なく伝えるために、一定のイベント、祭りなどでそれを象徴しているように見える。

 

そのためマタイ、マルコ、ルカの福音書で書かれた何かの出来事、たとえば主の洗礼、処刑、復活、昇天などが、ヨハネではまるで心理的な出来事のように描写されるということが起こる。しかし、教会に親しんでいる人にとって、なんとなくイメージできることになっていくわけだ。

 

アセンションは主の昇天で、「人の子は上げられなければならない」というのだけれど、明らかに今アセンションを唱えている人はこの概念を分かって「アセンション」と呼んでいるように私には思える。フォトンベルト云々と「アセンション」という言葉には、どう見ても言語的・概念的なつながりはない。そういうイベントについてキリスト教の概念を借りてきている、あるいは言葉は悪いが盗んでいるように見えるのだ。

 

何か、普通はキリスト教のアセンションは、ユダヤ人のイエスという救世主だといわれている人が何か不思議な力でもって天に上っていくということなのだと理解されているのかもしれない。

しかし、福音書で「人の子」という言葉が出てきたら、常に内的な問題、真理的な問題(本当は内的・心理的という表現は正しくないと思うが便宜的にそうします。)と考えてほしい。人の子というのは常に「わたし」「我」「自分」というような言葉で置き換えられる意味だと。キリスト、救世主、イエスと考えてもいいが、それは要するにどこか遠くにあるなにかあずかり知らないイエスではなくて、あなたの中にそういうものがあるのだ、と考えるべきである。

 

アセンションといっている人は、まるでその概念が分かってそれを言っているように思える。

しかし、そうだとすれば、集団的に起こるべきようなものかどうか。そのフォトンベルトに入る云々は関係なく、救済のためには必ずあなたやわたしにもそれは起こらないといけないことであって、2000年前からそれは何一つ変わっていないと思う。

ペテロがアセンションしなかった、ということになると、キリストは来てなかったということになってしまうと思うのだ。

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