「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」コメントにあったルカのファリサイ人と徴税人の話です。
コメントにあったように、自分はへりくだっているからいいや、と考えるのはどうかということですよね。
謙遜、とよく日本語で言われます。ただ、謙遜というのは、褒められて「いえいえ、そんなことはありません。」ということ、つまり、実は自分は高いものだと思っていて表向きお上品にそれを否定するというニュアンスがあって、私はあまり好きな言葉ではありません。
こうした問題に対して、一つの手っ取り早い回答は、神を見てしまうことだと思います。リアルな何かが必要だと私は思います。
確かにこの自尊心の問題、自分を無にするという問題は、一生の問題だと思います。なくなったと思ってもなくなっていないのです。そうではあるのですが、一度最後までちゃんとやってみて、神を見るとか、何らかの結果を得てしまうということが、一つの救いになります。そこに最終的な実体なり結果が伴わないために、道徳的な問題の範疇にとどまってしまっているのです。
現実的な世界の問題として、自分を誇示しないというのは、今の世の中であまり歓迎されません。多分金持ちにもなりません。高い位に上ったりもしません。それが所謂道徳的な問題でそうしているというのでは、少しさびしい。神はちゃんとしたご褒美を必ず用意されているはずなのです。
もう少し擬人化やたとえから離れて現実味のある言い方をすると、自尊心がない、自分が無になるというのは、自分の状態の問題であり、エネルギーの問題だと私は思います。自尊心が大量のエネルギーを費やしていて、それによってこの世界はこの世界になっている。自分が無になるというのは道徳的な問題ではなくて、そのエネルギーが解放されて、今までに起こらなかった何かが起こることだと思います。
そんなことが起こるのですか?いつ起こるのですか?どうしたらいいのですか?
しかし、聖書は「その日は盗人のようにやってくる。だからあなた方は目を覚ましていなさい。」
だと私は思っています。
そのために必要なことは、自分を低くして悔い改めることかもしれないけれども、そのことと同時に
「自分を責めないこと」
が、何より必要だと思います。
自分の人生で何らかの結果を出すのは自分しかいません。誰の人生も恥多いものだと私は思います。立派な人生というのは、多分存在しない。あるのかもしれないが、どこか知らない人、自分が到底味わうことのできない運命を持った人のことを考えても仕方がないじゃないですか。「罪人の私を憐れんでください」という祈りが義とせられた、というのであれば、それは非常に恥多い人生であっても必ず具体的な神からの賜物を伴う結果があったということであって、単に詩的に道徳的に、「それ、俺みたいな取税人はちゃんと謙遜しているから偉いだろう!」ということではないと思います。
ちなみに、正教会では、大斎、つまりカトリックでいうカーニバルの後復活祭までの断食の期間ですが、それに先立つ日曜日が悔い改めを主題とする日になっていて、その中に「税吏とファリセイの主日」というのがあります。