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福音書は先に理解してから読む

福音書というのは、つくづく不思議な書物だ。いわば、わかってから読まないといけない書物なのだ。

 

福音の中で、いわば道徳的な部分、キリストがこうしなさいと単純に示した部分は、比較的素直に受け取ることができて、それが人生の重要な部分になっている人は多いと思う。しかし、そういう人でも、よくわからない部分が沢山あると思う。

 

福音書をちゃんと文法的に読み解くというのは、これはこれで大事なことだとは思う。しかし、ここにも難しい部分がある。

福音書に使われているギリシャ語は必ずしも一般的なギリシャ語ではない。当時の一般的な言い方でこういう言い方はしないというような表現があって、それはそれなりに文法的に解釈しないといけない。そして、それを解釈しようとした人間は、もちろん私たちが最初ではなくて、当初ある解釈で考えた人が句読点を整理したりして、当初の文面と同じであるかどうかわからないというようなことが起こる。

そして、さまざまな解釈を検討して、文法的に読み解いたとしても、結局わからなかったりするのだ

 

ところが、あるときふと「この節はこのことを言っているのではないか?」と思い至ることがある。

もちろん、それは福音の内容をわかってかわからなくてか、書き写したり翻訳したりした多くの先人のおかげであり、感謝しないといけない。しかし、それらの先人たちの書き写した内容や翻訳した内容が、必ず正しかったかどうか、実はわからないのだ。場合によっては、はっきり間違っているかもしれない。にもかかわらず、ある時に突如その内容が開けてくる。

 

これは他の書物を読んでいるときととても違っている。福音書は字面を追って解釈するということができない。最初から知っていることを要求するのだ。

福音書は先に理解してから読む」への2件のフィードバック

  1. ネコ

    こんばんは、ネコです。
    福音書は本当に不思議な書物ですね。
    道徳的に読む人もいる、確かにそうです。
    文法的に読む、とても大切なことですね。

    「福音書は、理解してから読む、」simpledirectさんのおっしゃる深い意味は
    なかなか深遠なものがあると思います。
    「理解してから読む、、」言葉通りにとらえ、わかってから、理解してから読むというのであれば、福音書を真に理解することなどいつまでもできないような気がする。
    たしかに、
    何を言おうとしているのか判らないような箇所は福音書にはたくさんあるような気がいたします。
    また、道徳的にとらえ、人生の座右の銘としてとらえていく人も大勢おられると思います。
    しかし、ここでおっしゃられるように、
    ある日「この節はこのことを言っているのではないか、、」と思い至ることがある。
    本当にそうですね。
    何年も年月を経てから、あっもしかしたら、と思うことがあるように思います。
    そこから、福音書を新たにとらえていく、、。
    このことをおっしゃっておられるのでしょうか?
    本当にそうですね。
    福音書は「ある日、我らは心に強き光受けて、、神に帰する決意の、、」(聖歌の一節ですが)
    そういう書のように思います。
    ただ、、
    先人たちの書き写した内容や、翻訳した内容が必ず正しかったかどうか、実は判らない。
    本当におっしゃられるとおりだと思います。
    現在、日本の多くのプロテスタント教会で使われている聖書にも、
    新改訳、新共同訳、とかあるようですが、
    ヘブライ語とギリシャ語の「底本」がどうのこうのと言って、やはり訳した団体がそれぞれ違うようですね。
    しかし、そういったことがあっても
    ある日、福音書はそれらを乗り越えて、迫ってくるような、そんな不思議な書物と思います。

         

    返信
    1. simpledirect 投稿作成者

      ネコさん、こんばんわ。

      私自身は、教会であったとしても、他の宗教であったとしても、もう引き返すことのできない一つの場所があると思うのです。
      その宗教をやっていて、これは嘘ではなかった、確かにこういう事実が存在した、そういう避けることのできない通過点です。
      福音書が語っているのは、その向こう側の景色であるように思います。

      仏陀の宗教は、常にそのこちら側から向こう側を見ていると私は感じています。
      たとえば嘘も方便と言いました。火事だ、と叫んで家の外に出られればそれで初めて人は見たことがないものを見る。しかし、その「人が見たことがないもの」を仏陀は説明しようとしなかった。
      あるいは毒矢の喩をかたりました。毒矢に刺された人は、その毒がどのような毒か、その矢何の木でできているのか、わかるまで矢を抜いてはならないと言っていては死んでしまう。そこで必要なことはまず毒矢を抜いて治療をすることだ、と。しかし、毒矢を抜くと、つまり無明が晴れた状態がどういう状態であるかは説明しなかった。
      思うに仏陀は、自分で見ないと仕方がないし、見ればわかると考えていたのではないかと思います。
      なんでも、般若経というのは数百巻もあるそうですが、有名なところで般若心経、あるいは金剛般若経のような経典があります。そうした書物を見ても、「ああではない、こうでもない」ということしか書いていません。仏陀は理性を超えたものを見るために理性に働きかけるということを徹底していたと私は思います。

      しかし、福音書は当然のごとく、読者がその通過点を経過した、という前提で語っているように思います。その結果、福音書の内容は誤解され曲解され、多くの幻想を生んだと思います。
      その結果、「ある日、いろいろな違いや経緯を乗り越えて、迫ってくる」ということなのだろうと思います。

      返信

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