カスタネダの話の中で、「沈黙の知」と呼ばれる状態になるためには、生死のかかった状況が必要になるのだという。カスタネダは自らの経験の中で、飢えたジャガーに追われて逃げる状況を描写しており、また彼の師の経験として大雨で増水した川に流されている状況を記している。
本当は別にカスタネダなど引き合いに出さなくても、各宗教でそのような状況は求められている。
キリスト教では「己の十字架を背負って主に従う」という表現がされる。
我々が実際に目にすることができる致命者(殉教者)の記録というものはあるのだが、こうした記録は実際に命を捨てているものの、我々にとっては何かとても遠いことのように感じられる。彼らはすでに自分の信仰はしっかり確立していて、ライオンに食われようが、牢に入れられようが、逆さに十字架に磔にされようが、たえしのんでいるのだ。しかし、本当はこのように実際に致命してしまう前に、彼の中では命を捨てるべく、決定的な変化があったはずだ。しかしそうしたことは描写されない。
さて、目の前に生死がかかった状態を用意できるでしょうか。どうなったら、生死がかかった状態なの?
崖の上に立って、下を見下ろして、ここで一歩足を踏み外せば、落ちる。後ろから押されれば落ちる。だけど、崖の上に立っているとき、怖いけどそれが「命が懸った状態」だとは多分思わない。そういうことなら、実はあらゆる瞬間が生死がかかっていると考えることができる。今歩いていて、車にぶつかって死ぬかもしれないじゃないですか。上から何かが落ちてきて、打ち所が悪くて死ぬかもしれない。
じゃあ、一生懸命何かしているというのはどうだろう。毎日金メダルを取るために練習しているというのは?しかし、それは結局死にはしない。あるいは、練習しすぎて本当に死んでしまうかもしれない。それは生死がかかった状況なのか。
結局「後で考えてみると生死が懸った状態」というのは、大した意味がないことになるでしょう?大事なことは、今その場に直面しているあなたにとっての死であって、「後で考えてみると、あんときゃ危なかったんだな」みたいなことは別にどうでもいいのです。
生死がかかった状況というのは、私たちにエネルギー的に決定的な変化を及ぼすようなある状態のことである。にもかかわらず、それは我々がたとえば宗教的な精進とか修行とかそういうものによって、自分で自分にもたらすことができない要素である。そして、それは絶対必要なものだ。
ネコです、こんばんは、
生死がかかった状況、興味深いものがあります。
「それは我々がたとえば宗教的な精進とか修行とか、、そういうものによって、自分で自分にもたらすことができない要素である」
確かにそうだと思います。自分で自分にもたらすことが出来ない、、
上手く言えないのですが、ですがある日突然に与えられる要素ではないような気がする。
エネルギー的に決定的な変化、それは精進とか修行とかによって、(それも必要であって、)
そして、自分でどうすることもできない動かしようのない状況の中に置かれた時、
ある時、与えられるものだと思います。
ネコさん、こんにちわ
(それも必要であって、)ということですね。
そういうことだと思います。僕がいて困難が振りかかって、初めて聖霊が働く隙ができる。