色々コメントをいただきました。自分はこう考えています。
死後「私」がどうなるのか、ということだが、この「私」「個人」というものは単純な一レベルの塊ではなくて、様々な段階において存在し、死後の経緯も違う。一番単純な例は肉体で、死んでもしばらくは有機体として残る。
意識は消えるのだろうと思う。個人を個人にする明かりが消えるから死だと思う。一方で、様々なレベルにおいて様々なものが残る。
生前において、その人の何かが形成され、それは肉体や彼の関連する事物に残る。「形見」とか「ケガレ」という風習があるのはそのためだと自分は考える。そして、肉体が死後火葬にされるのでなければ、その人の生命エネルギーのような何かが肉体にはかなり残っていると自分は考える。仮に死後肉体や精神などその人に属するすべてを考えた場合その中に、違う世界に行く実体、蒸発する実体、転生する実体みたいなものが別個に存在したとしても、肉体自体にも何かが残るのではないかと考えている。
専門的に学んだわけではないのだが、中国には風水という学問がある。これは現在家相学のように思われているが、それは後代に発展した陽宅と呼ばれる学問で、もともとは陰宅、つまり墓相の学問だった。彼ら曰く、火葬にしてしまえばどのような葬り方をしても違いはない。しかし、土葬にする場合、その墓の相によって、子孫の繁栄の如何が決まってくる。山の尾根が平地に交わり、山の気が流れ落ちてくる龍穴と呼ばれる場所にふさわしい墓所を構える必要がある。中国人の墓に対する熱心さは、各地に残る巨大な皇帝陵からうかがい知ることができる。
これはエジプトやキリスト教の文化にも共通している。よく「キリスト教やイスラム教では復活の時に体がいるから、火葬にしないのだ」という説明をする人がいるが、自分はこの説明がすべてを言いつくしているとは思わない。イスラムのことは詳しく知らないが、キリスト教や古代エジプトの宗教は、ある意味遺体に残る痕跡やエネルギーについて、ほぼ完ぺきに理解していたのだと思う。「ご聖体」というのは、まさにそういう理解の上になりたった真実であるように自分には思える。今我々は、誰でも防腐剤を施してミイラにする、みたいに考えているかもしれないが、彼らの中では、何千年も遺体をミイラにし続けてきて、生前の行いが死後の肉体の保存状態に関係しているということはわかっていたはずだと思うのだ。
以前に「誕生日や命日がみんな同じ?」という記事を書いた。この方は、死後も何とか旦那さんと同じ墓に入りたい、と願っていたわけである。しかし、もしこれが火葬の時代だったら?火葬場で体を焼いた後関西のどこかでするみたいにちょんちょんとわずかばかりの骨を骨壺に入れるだけだったら?ひょっとしてそういうことが起こらなかったかもしれない、と思うのです。
どれがいいのか、ということについては、様々な意見があるのだろうと思う。大きく古い文明国ということを考えたとしても、インド亜大陸ではずっと火葬にしてガンガーに灰を流すということが行われてきたわけだし。