ついこのあいだ、自分は神戸で火葬を経験した。と、焼却炉から出てきた骨を、係の人が案内して、小さな箱に入れて、まだまだいっぱい骨が残っているのに頭蓋骨とのど仏を入れるとふたをしてしまった。残った骨は、共同墓地で供養すると係りの人は仰っていた。
自分の田舎では、骨壺がもっと大きくて、ほぼ目に見える全部の遺骨を骨壺に入れることができる。実際にその様子を見たことはある。関東に住んでいる親戚の話では、関東でも骨壺はもっと大きい。骨壺が小さいのは関西の風習らしい。本当は自分は昔京都の九条山の火葬場に上がったこともあるのだが、その時どうだったか覚えていない。その時は、教会の手伝いで、自分の親族ではなかったし。しかし、こんなに残しただろうか?
だから、その現場に居合わせた人たちからは、「これだけしか持って帰れないのですか?」みたいな声が上がった。自分の遺族だ、全部持って帰りたい。しかし、それは土地がいくらでもある田舎の都合なのかもしれない。
前にも書いたかもしれないが、以前私のうちには立派な墓地が山の中にあった。しかし、お参りに行くのが大変だということで、近くの菩提寺に墓を作り直した。
昔の墓地というのは土葬で、多分曽祖父に当たる人と思われる骨は、ほぼそのままの形で出てきた。実際の人物と比較してみれば当然のことなのだけど、案外頭蓋骨は小さいものだな、と思った。
墓掘り人夫さんは作業をするときに酒を用意していて、骨を掘ると酒を飲む。自分は常には酒は飲むことはないのだけれど、そのときは作業に参加すると酒を飲まされた。それは、やはり墓に霊的な何かが残っていて、ケガレだかなんだかを払うために酒を飲まなくてはならないわけである。祖母などは古い墓に葬ったのだが、そのときは埋葬の指導をする道心と呼ばれる僧侶が、ここに埋めても3年はその念のようなものが残ると言っていた。
一方、火葬にしてしまった骨について、そういう注意が払われることはあんまりないように思う。
現代人は霊的なつながりみたいなものがわからなくなってしまっているからどうしようもないのだけれど、お墓や葬儀に関する多くの風習が、おそらく土葬を前提としてできているのだろうと思う。
関西地域のように焼いてしまったらほんのちょっとだけ遺骨を遺族に渡せばいいや、という考え方なら、別段散骨しようが樹木葬にしようが、大した違いはない、という考えが出てくるのは必然的なことだ。でも、それは多分火葬にした時点で、肉もなくなるわけだし、ボロボロになる骨もあるわけだから、全く遺体として持って歩けるという考えには逆に無理がある。
「この人と一緒な墓に入りたい」的なことがあるとすれば、土葬の方がいいのではないだろうか。
亡父は市営墓地に購入しました。
墓を継ぐ孫はいないので、いずれ撤去されるという前提で
骨壷を使わず布に包んだ状態でお墓に入りました。
なので全部拾われたんですけどね。
私も独身のままで家族の中で最後に亡くなったら、共同墓地もあるのかもと思っています。
そうなると主要な部分以外は廃棄されるんですね。なるほど..
りんねさん、こんにちわ。
都会は大変ですね。
りんねさんも、若くはないかもしれないけど、まだわからないんじゃないですか。
あわよくばお子さんができるか、養子や後見人ができるかもしれないじゃないですか。
新潟市内近郊辺りは拾える限りのお骨を大きな骨壷に入れてます。これも地域で違うのですね。
火葬土葬、世界には鳥葬や水葬もありますね。
檀林皇后のような事もあったり。
身体自体は有機物?なのかな。死ねば身体は不要、と思うし遺体に何か宿るとかって事も考えられないです。で、魂はすぐにどこかへ去って、次の人生を待つのではないかな、と思ってます。
生まれてくる前の赤ちゃんの記憶が語られてるようなサイトを見たりして、なるほどな、とか思います。
遺骨から離れたコメントですみません。
あめさん、こんにちわ。
コメントをいただいたので、新しく記事を書きました。
檀林皇后の話、知りませんでした。そういうこともあったのですね。