今ぴちぴちピッチピュアの14話をゆっくり見ているのだけれど、記憶を失った海斗君の前に、力を失って海底に沈みおそらくは死んだはずのガイトが出てきて激励・叱責する。
Ξύπνα αδερφέ μου. Εσύ είσαι πολύ πιο δυνατός. (クシプナ、アデルフェ・ム。エシ・イセ・ポリ・ピオ・ヂナトス)
Ξύπνα και σήκο πάνω. (クシプナ・ケ・シーコ・パーノ)
目を覚ませ我が兄弟。お前はもっと強い。目を覚まして立ち上がれ。
(日本語のセリフでは「情けないぞ、我が分身よ。目を覚ませ。そして立ち上がれ。」となっている。)
ガイトは、るちあが恋い慕う海斗君と双子の兄弟であり、ガイトが兄だ。前半ではガイトはいわば完全な悪役、悪玉の大将として描かれている。しかし、一旦前半の戦いが終わったのち、より強大な敵に立ち向かわなければならない海斗にはこのように励ましを与えるものとして登場する。
自分は、このガイトの「兄」の感じというのはとてもよく出ていると思う。
年の近い兄、今の大河ドラマの真田兄弟もそうだけれど、そういう相手だと、優しかったり頼りになったりという側面もある一方で、常に高い壁として立ちはだかる強大な兄貴の存在というものが弟にはある。彼が自分にとっての基準になるのだ。一方兄のほうは自分を何とか追い越そうとして迫ってくる弟というものが脅威に感じられる。弟は兄という手本がある分、兄が苦労して手に入れた結果を当たり前のように自分のものにしてくる。
自分の時もそうだった。2つ上の兄が苦労して自転車に乗れるようになったのを自分は覚えている。同学年のほかの子に比べて、遅かったのだ。それで、毎日後ろの道に練習していた。後ろから押してあげたりいろいろした。ところがある日、補助輪のねじが緩んでいたのか、乗っているうちに少しずつ後ろに下がってしまって、いつの間にか支えなく乗れるようになっていたのだった。
ところがそれやこれやを見ていた自分は、兄より1年早く自転車に乗れた。そういう側面は常にあったが、それでも彼がやる「思い入れ」のようなものや達成に自分はなかなか追いつけないという思いも常にあった。
また考えてみると、兄弟というのは、子供の時に最も身近にいて、ある意味においては親よりも近しい存在であるにもかかわらず、大きくなってから一緒に住んだりすることはほとんどない。
もし仮にドラマで、普通に二人の兄弟が一緒に住んでいてそれを描写するだけなら、この兄弟の複雑な感情というのを表現できなかったかもしれない。しかし、ピッチのガイトは、それを極端に強大な力を持つ敵として描くことによって、見事に「兄」というものを表現しているように自分には思える。
もっとも、ぴちぴちピッチには、親子関係とか夫婦とか、出てこないんですよね。大事な人間関係は大体兄弟です。作者さんの人生経験が現れているのだろう。
ネコです。
そうなんですか、私は、ピチピチピッチは全く見ていないので、スルーしていましたが、兄弟という表題に目を引かれてしまいました。
何故ならば、私は、四つ違いの二人姉妹で育ちましたが、(私が妹です)私にとって、姉は、強靭な、それこそ壁でした。優しい時もあるけれど、恐怖でもあったし、そして、ある程度大きくなってからの妹の私にとって、姉は、理不尽な存在であったことも確かです。
都合が悪いと口をきかなかったり、当たり散らす等の
行動があったことも事実です。それは、大人になっても同じだった。他所の姉妹など、みんな結構大人になると仲良しだと聞いて、うちは特別なのかしらん?等と思ったものでした。このブログを読んで、何となく納得したような気がしました。
そのどうも上手くいかない姉と、この度、遺産相続の事で色々と相談しないといけないことになりました。
今までは先伸ばしになっていた話をいよいよしないといけなくなった。姉も私も病身で、年老いたからです。姉は、訳あって全くの独り身です。
これから私達姉妹は、どうなることでしょう。
先は読めません。本当に兄弟(姉妹)とは、不思議な存在ですね。
ネコさん、こんにちわ。
同姓の兄弟、姉妹の場合は、そういうことがあると思います。
異性の場合には、もう少しソフトな関係になることが多いと思いますが。
そして、大抵の場合は、2人の兄弟はそれぞれ違う家系の性質を引き継ぎます。
多分、長男が母に、次男が父に、長女が父に、次女が母に似るのです。
自分の場合は、母は兄と私を同じように育てようと腐心したと知っています。
大抵、同じシャツが2枚あり、同じおもちゃが2個ありました。
なので、兄にできて自分にできないことは、同じように育てられているのだから、自分が至らないのだと思っていました。
もともとかなり違うということに気が付いたのは最近です。
そうなんですか、同じおもちゃ、同じ服、それは、
幸せな思ひ出ですね。私達姉妹は、かなり待遇が違っていました。まあ、主様とは時代も違うと思いますが、実を言うとお稽古事など、私は、一度もしたことがありませんでした。姉は、あの時分には珍しく、沢山の稽古ごとをしていました。ピアノ、お習字、算盤、絵画、学習塾、私は、何も習ったことがなく、親から「あんたは身体がよわいけん、、」と言われていましたが、私が大人になってきて気がついたのですが、多分、経済的に2番目の私まで手が回らなかったのだろうと思いました。 姉は、小学生くらいは優秀だったようですが、段々、普通(?)になっていったみたいです。母の自慢の娘のようでした。私、そりゃ必死に頑張りましたよ。実は有名私立中学高校に行きたかったけど、誰にも話すこともなく、姉のお下がりの学用品や教科書で頑張りましたよ。戦後のあの時代、4歳違うだけで世間は大きく変わったけど、(お下がりの学用品や教科書の時代ではなくなった、教科書は当時、有償だった)それに対して、私の母は多分それに、ついていけなかったんだと思います。優等生の誉れ高い姉に、反発を感じながら必死で頑張りましたよ。それはさておき、私は、つい近年まで、子供というのは、ある程度素質に左右されるものの、生育環境に依って性格等は変わると思っていました。それが、教育の成果、成せる業だと思っていました。そして、今、孫の成長に関わり、観察するにあたって、どうやらそれは違うと思うようになりました。そりゃ100%では無いけれど、
多分、多分ですよ、環境も大事だけど、その本人の素質、生まれ持ったものに依る割合が大きいのではないかと。それこそ、生まれた時の星の業に依るのではないかと。明らかに性格の違う孫3人を眺めながら、、考え込む私です。
ネコさん、
そうした家庭は存在します。兄弟を妬ましく思うような家庭環境があることは自分も知っています。
自分の家はそうではなかったからそういったのですが、違う家もあります。
ケーキを買ってくるのでも、自分はチョコレートケーキを2個買ってくるのが正しいと思っているのですが、モンブランとイチゴショートを買ってきて、兄弟に別々にあげる家庭は存在します。
それから、後半に書かれていることは、まさにその通りです。子供は生まれた時からその人として生まれてきます。ある子は掃除をし、ある子はしません。ある子は工作に熱中し、ある子はサッカーに熱中します。違うのです。
またネコです。
そうですね、
考えてみれば、聖書にも兄弟は沢山登場して、結構みんな、不仲ですね。
カインとアベル 放蕩息子、マルタとマリア
私は、三浦綾子著作の「泥流地帯」の登場人物の兄弟
すごく仲が良いんですね。
助け合って、北海道の開拓農家で頑張っている。
その真面目でひたすら生きる兄弟に、過酷な運命が襲い掛かる、、、。神はいないのか?
と、まあ、こんな小説です。
私は若いころ、その仲の良い兄弟を羨ましく思っていました。
あれは三浦綾子氏の理想だったのでしょうか。
若いころの思いです。
自分は今の仕事をするようになってから、兄弟で会社をしている人に会ったことがあります。兄が社長で、弟さんが営業でした。
うらやましいという思いもありました。しかし、ずっと一緒かどうかもわからない。
これは人生の状況でしょうね。