はっきりした、ある成果というものがあるのです。
それがなかったら、あらゆる宗教やスピリチュアルだのなんだのというものは、まるっきりの徒労であり、法律や道徳となんら変わりのないものになってしまうでしょう。
法律や道徳はこういいます。善行を行いなさい。だけど、それは社会秩序を維持するためだけなのです。
仮にヨガや座禅みたいなものとします。色々な健康法があったりなんかして、おなかが凹みますとか足が細くなるとか・・・そんなことのためにヨガやるんですか!?
最終的にはサマーディ(三昧)ですよ。
しかし、そうであったとしても、他人を退けて一人静かに座ったり行をしたりして、理想の心理状態に達すると考えるのがいいのだろうか。ここで文章に書いたとしても、とにかく沈黙が得られさえすれば、自動的にいろいろなものがやってくる。現代人は心の中も外もやかましすぎるのです。
しかし、座って、一つ一つの心の動きを止めれば、最後にはひとつもなくなってそれが達成させるのでしょうか?
結局はそれも道徳や法律と同じなのです。
心の中の何かを一個一個消しても、ゼロにならなんです。
心の中の何かを一個一個消していく。消しつくせるということはない。だけれども、一個一個消していくとか、あれやこれやでもって、力がたまっていく。あきらめずに進んでいくと、あるときとんでもないことがことが起こる。
沈黙の状態では、人は多くのことを知る。なんでも可能に思える。人が大きな湖につながっているというと、どこか遠くの何かあずかり知らない遠くの、あの世だとか、天国だとか、何かだと思いがちです。
そうではなくて、それは目の前のことであり、ある感情の状態、自由な状態、静かな状態、落ち着いた状態です。