この世で私たちがあると思っている「もの」というのは、それ自体が確固としてあるわけではない。
たとえていうならろうそくの炎のようなものだ。次々蝋は解け、燃焼という現象が続いている。炎はいつもそこに同じ形で実体があるように見えるが、実際にはそこの炎は固定した何かがあるわけではなく何かが流れ反応し続けているという事実のもとに、あたかも一定の形のものがあるかのように見えるというだけだ。しかし、それでも炎の形は大きく変化することなく、一定の形を保ち続けている。そこには、重力とか他の気体とか温度の変化とか、いろいろな法則性があって、その法則性に基づいて別の力が加わらない限り、その外見の形は変わらない。
しかし、それがろうそくであるというのなら、その蝋はどこからやってきているのか。
人はそのことを放射といったり、流出といったり、言葉といったりする。それは同じところで、より微細で軽く希薄で質の高いエネルギーが、より重く大きく質の低いエネルギーにずっと流れ続けていて、それが全く機械的なものだというわけではなく、ということは意志的なものであって、かといってその途中の流れを安易には変えられない一種の法則性があるということなのだ。
しかし、言葉の上で放射とか流出というような言葉を使った時に、その源は平板な空間上の別の一点だとしか、普通は思い描くことができない。本当はそうではなくて、源も流出先も目の前にあるのだけれど、目の前にある真実というものは人が「これが当たり前だ」と思っている常識の範疇に収まらない。
人によってはそのことを次元というような言葉で言い表す。
それに対して適切な言葉を探していると、最終的には仕方がないから「創造」というような言葉に落ち着いてしまう。日常生活で「創造」などという言葉を使えば、違うことを思い描くに決まっている。しかし、もし何らかの形でそれが「創造」なのだということを伝えておかなければ、いざ真実を見た時にそれを言い表す言葉がないことになってしまう。