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印刷技術

自分は、最近はあまり聖書は読んでいない。読むべきなんだろうとは思う。だが、大まかな話は覚えているし、教会に出来事を記念する祭日もある。日本語の聖書を読んだとき、そこにはある程度の意味の違いが含まれているとわかる。だから、ギリシャ語の聖書を開くことになるわけだが、そうすると、それはそれで辞書を引いたりしないといけないこともあって、すんなり読めないこともある。いずれにしても読んだほうがいいとはいえるかもしれない。

 

だけど、だ。

つまり、昔は聖書は手元になかったわけだ。それが当たり前だった。福音書だけが、伝道の手段、ということはなかったはずだ。本は貴重なもので、読める人は限られていた。

その状態で1000年以上続いた。

 

歴史の授業で印刷技術について教わる。グーテンベルクの印刷技術が、プロテスタントの発生と深く関係している。印刷技術の発達によって、聖書が印刷されて配られるようになった。印刷されて配られた聖書という書物に書かれたことが基準になった。

逆にそれまではそうではなかった。

 

そうでなかったらどうだったのか、ということなのだけど、実はだから無知だった、知識が伝播しなくて困ったということなのかというと実はそうではない。

各時課の初めには詩編が読まれる。ダビデ王がウリヤの妻を奪って悔悛した歌とか、創造の素晴らしさを歌った歌とか、そうしたいくつかの歌は毎度教会に行っているとほとんど暗唱できる。年間を通じて福音書が少しずつ読まれる。それぞれの祭日に読まれる個所も決まっているから、毎年祭日に行っていれば、「ああ、あそこが読まれるのだな」ということはわかる。洗礼の式に参加すると「癒されしものは十人にあらずや?」という箇所が読まれる。「立ちて行け、爾の信は爾を救えり」というのは該当する福音書をきちんと読んでいなくても誰でも知っている。

必ずしも聖書で体系だって書かれていない教義的なことも、祈祷の中ではそれぞれ順番にまとめて並べられていて、それはそれなりに重要な概念を伝達するために使われている。

自分はプロテスタントさんの祈祷には出たことはないのだけれど、プロテスタントさんの場合には、その場で祈るべき言葉を自分で考えて言わないといけないらしい。出られた人に聞いてみると、なかなかその言葉を考えるのは大変で、しかしいつも来ておいでの信者さんは実にうまくお祈りされるそうだ。なるほど、それはそれであるべき姿なのかもしれない。しかし、昔の教会の姿では、印刷技術がない分、かなりの時間を正しく伝えるということに割り当てる必要があった。アドリブの部分がなかったわけではないらしいが、かなりの部分が決まった教義の復唱とでもいえる作業に費やされた。

多分、それはそれでうまく機能していたのだと思う。

 

印刷技術が発達することによって、かなり比重が置かれる部分が変わった。バランスの置き方が変わったのだろうと思う。ちょうど、今お寺さんに行って、般若心経ぐらい有名なお経を除けば、誰か偉いお坊さんが何かわからないありがたいお経を唱えていただける、そういう感じに近いものがあったのだろう。ほかの人はお経を知らないのだから、相対的に坊さんの地位というか重要性は高いわけだ。

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