先日の、「NHK、がっかり・・・」の記事を書いてから思ったのだけれど、なんとなくふらっと行って取材できるところとできないところがある。その土地の当然の前提というか、別に誰に言われなくても「こんなことは当たり前だろう」というような共通認識がある土地がある。そのことがわからなかったとしたら、「まあ、よその人だから仕方がないわね」ということになる。
もし、アメリカやオーストラリアにいって、「こんにちわ」と言って、行き当たりばったりでカメラを回して撮影しても、それはそれで番組になる。
正教圏で日曜日ということになると、それは無理だ。
日本は?日本もひょっとしてそういう文化がある土地なのかもしれない。外国人に有名なのはやはり京都の風習だろうが、出雲もそういう風習や伝統のある土地だと思う。
だけど、それで記事を書こうと思っていろいろ考えを整理していくうちに、やっぱり教会の独自性というのはあるのではないかと思うようになった。
毎日曜日教会に行くだけで、膨大な祈祷文を覚えていることになる。壁いっぱいに描かれていたり飾られているイコンを見るだけで、毎度福音書を読まなかったとしても、福音書の出来事についてあらかたは知ったことになる。
自分もギリシャに行った時に、逆にものすごく抵抗を感じもした。もし、東洋の宗教について何も知らずにギリシャに行ったら、単純に感激するだけで済んだだろう。だけど、自分はある程度いろいろ知っていたから、ギリシャ人たちがああだこうだと言ってくることに対して、消化不良を起こした。
日本でも確かに文化はある。あるけれども、普通の人が知っていることのレベルでは外部の人をいわば排除するようなものではない。そして、非常に難しいレベルの文化というものもどこかに存在しているのかもしれないが、それが日常生活のレベルまで降りてきているということはない。たとえば、その辺の人が毎日坐禅していない。毎日金剛経を唱えているかというとそうでもない。毎月お加持に人々が参加しているかというと、そういうこともないと思う。もっとも、北陸は定期的に和讃を唱えている集まりがあるのですかね。
だが、キリスト教の場合、それらが全部コンパクトにまとまった形式が少なくとも2~3世紀から継続して行われている。イスラムの皆さんのことはわからない。直接触れたことがないから・・・だけど、ラマダンがあり、1日5回の礼拝があり、人々の心に根をおろしたものにはなっているのだろう。