一般的に呪いというのは、他人を憎んではならないというような道徳的な問題、あるいはよくわからない魔術のようなもの、いわばファンタジーとして受け取られている。
私自身は特別にそういう経験があるというわけじゃないんです。本当にそういうことができる人、よく知っている人もいるかもしれないし、あるいはそういうことを言う人がいても全くのデタラメかもしれない。
ただ、違う見方を提供するということはできると思うのです。
一般的によく知られる、「丑の刻参り」。貴船神社に行って、わらで作った人形に五寸釘を打ちつける。あれはできればわらの中に相手の髪の毛とか、体の一部を入れることが望ましい。
よく似たものに西洋の蝋人形がある。蝋で人形を作り、それに針を刺すと、呪われる相手の該当の箇所が痛み、火であぶると全身苦しむ。
蝋人形には長い伝統があり、古代エジプトでは蝋人形を使った魔術が行われていた。ウォーリス・バッジ著「古代エジプトの魔術」(平河出版社)の「魔法の像」の章に、さまざまな像・蝋人形を使った魔法が紹介されている。その魔術たるや、蝋でワニを作って、魔法の呪文でナイル川に放つと本物のワニとなり妻の浮気相手を捕まえさせるというようなすさまじいものだ。このほかにも魔法の像を使った様々な魔術が紹介されている。
グルジェフの「注目すべき人々との出会い」には、催眠術の実験が書かれている。グルジェフはこれを「アストラル体における感覚の転移」と呼んでいる。まず蝋で人形を作り、被験者を一定の催眠状態に誘導する。被験者の体の一部に竹とオリーブで作った油を塗り、これをふき取って人形の体の同じ部位に塗る。そして、人形を針で刺激すると、被験者の体がピクッと動き、さらに深く針を入れると被験者の体に血がにじんでくるというものだ。
呪いではないのだけれど、所謂ミサ、キリスト教の儀式にも、何かしら共通した要素が見られる。人形を作るわけではないが、教会ではパンがキリストの体とみなされる・・・一応私は、外部の人向けにそういう風に表現しているが、教会としては、単にみなすわけではなくて、キリストの体になる、なった、と考えている・・・。聖堂の宝座(祭壇)の下には腐らない聖人の体が安置されており、あるいは儀式を行う布の中にそうした体の一部が縫い込まれている。
すると、なんとなくこういう図式が浮かび上がってくる。
1.こうした儀式では、米・パン・蝋といった、人間生活で重要な役割を果たしている有機物が媒体として用いられる。
2.関係を持とうとする相手の肉体の一部や何かしらの物質が媒体に含まれていることが望ましい。
そういう目で見てみると、自分としては別にやってみようとは思わないし真偽のほどもその起源も知らないけれど、一時期流行った「ひとりかくれんぼ」も、基本的にはこうした要素を踏襲している。
人形を作り、米と爪や髪の毛を中に入れる。そして、人形に被害者の身代わりになってもらう、というわけだ。
自分としては、呪いなんか推奨するつもりは毛頭ないのだけれど、多分これはパワーストーンなんかも関係している一つの原理なり事実なりがあるのです。いたずらに呪いだから云々で怖がることもないとは思うが、しかし、ある程度リアリティのある根拠があると私は思っている。